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更新日:2025年09月30日

水間鉄道開通100周年 水間鉄道開通までのあゆみ その2

参詣道「水間街道」とその近代化 その2

…南海線の難波駅から約五十分、貝塚駅で下車して北の一番踏切を渡ると黒い幌箱(ほろばこ)の付いたガタ馬車がこんまき屋の笛(昆布巻売りが客寄せに吹く笛)の様なものを吹き鳴らして客を待っていた。こんな情調(じょうちょう)は一寸(ちょっと)味わい得ないのんびりとした田舎(いなか)特有の気分である。/客が満員に充つると走りかけた、道が悪いのでガタガタしてとてもたまらなく揺れる、時々ゴツゴツと頭と頭、頭とガラス窓とが突き当りそうな事はたくさんある。尚(なお)其(そ)の上に締め切った幌の中に陽の光はなまぬるく照りつけて来る。まあ走るといふよりは足を労させないで行くといふ程度のもので却(かえ)つて疲れることは夥(おびただ)しい。/あとから自転車などがやって来てはすぐに通り越して間もなく見えなくなって終(しま)う。/五つ六つの田舎の村を越して約一時間も掛った頃、漸(ようや)くに水間寺に着いた。馬車は木積迄行くのだが、もうここで乗り捨てて水間寺へお参りすることにした。

とあり、乗り心地も悪く、時間もかかるものだったようです。
このような交通状況の中、1913年(大正2年)ごろから水間鉄道の敷設に向けてのあゆみが始まりました。

水間鉄道開通までのあゆみ

創始者の一人 川崎覚太郎

創始者の一人
川崎覚太郎

水間鉄道開通までの経緯については、西葛城村大字(おおあざ)馬場(現在の貝塚市馬場)の人で、元南海鉄道の浜寺駅長や難波駅長を務めた川崎覚太郎(右写真)の日記が遺り、その内容は『泉州文化資料』第14巻第11・12号(和泉郷土史研究会編、1968年(昭和43年)、南海朝日新聞社発行)に紹介されています。紙幅の都合もあり全文の紹介はできませんが、以下その概略を紹介します。

日記の冒頭には、「…水間岸和田間に軽便鉄道を敷設せん事を着眼したのは筆者の南海鉄道株式会社に奉職中の事でありました。」とあり、覚太郎の構想自体はかなり以前からあったことが分かります。

日記の内容は3つの時期に分かれており、始まりは1913年(大正2年)で、4月に南海を退社した覚太郎は6月に帰郷し鉄道敷設のための材料集めに励みました。その後、水間寺のある当時の木島村の村長や寺の総代の同意を得て、12月に趣意書を発表することになった、とあります。

続いて、3年後の1916年(大正5年)の9月、岸和田の実業家寺田利吉から資金援助を得る約束を取りつけたことで、計画は本格化し、10月には線路予定地の実地踏査が行われました。実地踏査の記述の一部を紹介すると、

…線路は水間岩助前より東側に直下し、名越(なごせ)、清児(せちご)の中間を踏切、清児、(麻生)中(あそなか)村は西側、石才は東側とし、貝塚駅附近にて西側をせば、脇浜の南端より海岸線とせねばならぬ。…津田川より国道を東側へ一直線に岸和田城の堀を埋立て、朝比奈氏邸裏手の空地を終点とすれば好位置と考えた。…

とあり、当初の構想通り水間-岸和田間の路線が計画され、貝塚からは脇浜へ、そして海岸に沿って線路が進み、岸和田城の辺りが終点になる計画だったことが分かります。

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