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更新日:2020年10月02日

古文書をひも解く~江戸時代の民衆の旅~

2頁の記事同様、企画展で展示している古文書の中から、民衆の旅に関する古文書を紹介します。当時の民衆にとって旅はそう簡単に行けるものではありませんでした。何らかの理由づけが必要だったのです。そのため例えば、町や村の代表として有名な寺社のお札をもらいに行くことなどを理由に旅をしました。泉州からの道中で大都市や名所に寄り道をして、物見遊山(ものみゆさん:気晴らしに見物や遊びに行くこと)をするのが数少ない楽しみでした。そして、自らの旅の道中を日記としてまとめた「道中記」も作られるようになりました。

「おほへ」(=覚え)の中の1コマ「金毘羅権現ハ日本一社ノ神、此山ニかぎれり」とあります。(本市指定文化財 福原家文書)

「おほへ」(=覚え)の中の1コマ「金毘羅権現ハ日本一社ノ神、此山ニかぎれり」とあります。(本市指定文化財 福原家文書)

例えば、福田村[貝塚市福田]の庄屋を務めた福原家には、寛政10(1798)年に書かれた「おほへ」(=覚え)の表題のある小さな帳面があり、「兵庫生田大明神」(=生田神社[兵庫県神戸市中央区])をスタートに湊川、明石、赤穂[以上、兵庫県]、牛窓[うしまど:岡山県瀬戸内市牛窓町]と西進し、瀬戸内海を船で渡り、丸亀[まるがめ:香川県丸亀市]へ、さらに金毘羅(こんぴら)の愛称で有名な金刀比羅宮[ことひらぐう:香川県琴平町]へ向かう旅の道のりが記されています。

さらに、この記録には、道中の名所旧跡の記述が多く、例えば湊川神社では楠木正成(くすのきまさしげ)の墓[神戸市中央区]、一谷(いちのたに)では敦盛公(あつもりこう:一の谷の合戦で敗れた平敦盛)の石塔 [神戸市須磨区]、善通寺[ぜんつうじ:香川県善通寺市]では空海(弘法大師)生誕の話などを詳しく記しています。

このように江戸時代の旅では、道中で見聞きしたことを「道中記」としてまとめ、家族への土産話や、自分の子孫に旅の様子を伝えようとしていたのかも知れません。

澤薬師堂の位牌調査

位牌調査時の写真

位牌調査の様子

本市澤地区にある薬師堂はかつて医王寺(いおうじ)という寺院が前身でした。医王寺は、江戸時代には の神様として知られる八品(やしな)神社の神宮寺で、明治に入り廃寺となりました(現在は町会で管理)。

薬師堂は、平成30年9月の台風21号により屋根などが大きな損傷を受けたため、大幅な改修工事を行うことに伴い、内部の撮影などを実施しました。その際、沢町会から薬師堂にある位牌の調査依頼を受け、建物の改修を終えたことを機に、7月9日調査を行いました。

調査により、医王寺の住職やその師匠のものと推測される位牌など22点を確認しました。また、開基とされる榮純律師(えいじゅんりっし)は、位牌から応永23(1416)年に亡くなっていることなどがわかり、600年以上前から明治維新まで澤に医王寺があったことが、今回の調査で明らかになりました。

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