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千石堀城跡(せんごくぼりじょうあと)の発掘調査 その3
根来衆の出城として造られた千石堀城は、「根来出城配置図」【右写真】(江戸時代製作、岸和田市教育委員会蔵)に二重の堀が描かれ「今城」と記されています。平成25年度より実施しているこれまでの調査では、外側の堀の北部分、城の出入口である虎口(こぐち)、西側の堀、頂上付近、東側に二重にめぐる堀の状況を確認する調査を実施しました(テンプス53号、55号、56号掲載)。
今回の調査は、内側の堀の東部分(第1区)、頂上南側(第2区)、外側の堀の北部分(第3区、第4区)、城跡の北側(第5区)で調査を行いました。

「根来出城配置図」(千石堀城周辺)

第1区
遺構は、幅約4.5m、深さ1.8mの堀を検出し、内側の堀が南側に広がることが確認できました。この調査区では、自然堆積層が見られないことから、掘った後、短期間で埋め戻されたと考えられます。遺物は、平瓦片、焼けた痕跡のある石、炭が出土しました。出土した石は、建物の礎石と考えられます。これまでの調査で出土した2点の礎石と考えられる石とともに、時代や規模はわかりませんが、城内に建物があった可能性が高まりました。


焼けた痕跡のある石

炭
第2区
頂上部は昭和期の造成によって土が盛られ、コンクリート、レンガ片を含む撹乱層を確認しました。城の遺構は確認できませんでしたが、瓦片4点、備前焼甕片1点が出土しました。出土した瓦片は、少量のため推定の域を出ません が、頂上部で江戸時代に、瓦葺きの建物があった可能性があります。


軒平瓦
第3区
遺構は、幅約4.8m、深さ約1.1mの堀を検出しました。この堀は、外側の堀の北部分で確認している東西方向に続く堀の一部です。第4区と同様に、昭和期の造成により上層が削られました。遺物は出土していません。


第4区
この地点は、城の入口に位置する土橋部分にあたります。遺構は、検出幅2m、深さ約2mの堀を検出しました。第3区と同様に、昭和期の造成により上層が削られました。遺物は出土していません。調査の結果、堀を掘った後に一部を埋め戻して土橋を造ったと考えられます。

第5区
地層の状況から、堀などの遺構は確認できず、遺物も出土していないことから、城の遺構が北側に広がらないことが確認できました。

更新日:2018年06月01日