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櫛の生産地と櫛挽職人・木櫛商人
古くは「和泉櫛」あるいは「近木櫛」とよばれたつげ櫛は、古代から中世にかけて近義郷(こぎごう)とよばれた貝塚市の南西部一帯がその生産地として有名で、生産された櫛は都の宮中や院の御所などにおさめられていました。
櫛の生産地であった近義郷は、今から約700年前、鎌倉時代の終わりに高野山の丹生(にゅう)神社の領地として朝廷から同神社へ寄進されました。これは、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に来襲した蒙古(元)の大軍を撃退できたこと(文永・弘安の役)を神に感謝するためになされたものでした。

その後、1293年(永仁元年)、近義郷は荘園「近木庄」(こぎのしょう)となりました。近木庄の時代になると、木櫛作りの職人(上写真、貝塚の史跡めぐり(1)『近義地域の史跡』より転載)は「供御人」(くごにん)と呼ばれました。彼らは関所の通行権や独占販売権を認められて、生産した櫛を諸国で売買交易するようになっていきました。こうして全国での流通量が増加するにつれて職人の数も急増していきました。
江戸時代になると、岸和田藩領下の近木庄の村々では500人から600人、隣接する貝塚卜半寺内(かいづかぼくはんじない、願泉寺卜半家領)には100人前後の職人がいました。また、「木櫛屋」とよばれた櫛問屋(櫛仲買)も近木庄・貝塚卜半寺内ともそれぞれ10人前後のものが居住していたことが記録に残っています。
明治時代以降も貝塚市域は木櫛の生産・流通の全国的な拠点でしたが、安価なセルロイドやプラスチック製品が流通するにつれて、伝統的な手工業であった木櫛の生産量は次第に減少していきました。
このように、“つげさん”のモチーフとなった“つげ櫛”は1000年以上の古い歴史を持つ貝塚市の特産品です。手入れをすれば一生物といわれるつげ櫛は、南海本線貝塚駅前の貝塚ぶらんどショップ(ぷらっと貝塚/貝塚市観光案内所)等で展示販売されています。
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更新日:2020年05月28日