現在の位置

3ページ

更新日:2020年05月28日

松瀬青々と貝塚

青々は、9歳の時に生母と死別し、ほどなく迎えられた継母ていに育てられました。継母ていは旧姓を水間ていといい、その祖先が松尾芭蕉(ばしょう)と同時代の元禄の俳人水間沾徳(せんとく)であったことから、青々は貝塚水間の地に強い関心を持つことになります。

青々が貝塚を初めて訪れたのは1922年(大正11年)3月17日のことで、岸和田在住の門人森古泉(こせん)らとともに木積(こつみ)と水間の地を吟行(ぎんこう)しました。木積では釘無堂(国宝孝恩寺観音堂)に安置された国宝(現在は重要文化財)の仏像群、水間では水間寺の本尊や宝物類を拝観し、境内にあるお夏清十郎をまつる愛染堂や縁結びの椿を見、お夏の生家でその子孫と語り合いました。この時詠んだ俳句は次のようなものです。

弥勒仏(みろくぶつ)の 下生(げしょう)をいつと 囀(さえず)れり
ほのかなる 日暮の中の 連翹花(れんぎょうげ)
掻松葉(かきまつば)の 門にもの問ふ 夕霞
寺をいでゝ 梅の残りに 歩きけり
黄昏(たそがれ)や きのふの雨の 落梅花(らくばいか)
涅槃(ねはん)過ぎの 寒さを訪(と)ひつ 水間寺

俳句を書いた絵葉書の写真

絵葉書「岩はしる 水間にきかん 時鳥(ほととぎす) 青々」

翌18日付の青々が古泉に宛てた書簡には、木積、水間の地について「又ゆるゆる遊覧いたし度(たき)ものと思ひ候、実によろしき山村の趣、只ならす興を引かれ申候(そうろう)」としたためています。

そして、この手紙の通り、木積、水間の地には、その後初詣、初午(はつうま)詣、七夕祭り、蛍狩り、俳句大会の開催など何度も訪れています。また、近義(こぎ)の浦(二色の浜)の防風(ぼうふう、セリ科の多年草)や月見草を好んだほか、王子の吉祥園寺や三ツ松の梅林(写真下)などへも吟行しています。とりわけ1927年(昭和2年)に青々が高師浜に新居を移して以降は、青々に師事した貝塚の俳句結社「千古吟社」の同人たちとともに、四季折々の貝塚を楽しんだことが知られています。

1931年(昭和6年)2月22日三ツ松梅見句会の時の集合写真

1931年(昭和6年)2月22日三ツ松梅見句会

防風の 卯月しろみや 浜千鳥(1926年、近義の浦吟行)
山の眉に 夏来にけりな 櫛の宮(1926年、近義の浦吟行)
菜の花に 荒れて吉祥 園寺かな(1927年、吉祥園寺吟行)
初午の より道をしつ 雨上り(1927年、水間寺初午詣)
御旅所の 組みかけてあり 浜すヾみ(1929年、感田神社貝塚宮)
凍て鳥の 羽の木にのこり 梅の花(1931年、三ツ松梅林吟行)
夏草の 辻に面着て 猿田彦(さるたひこ)(1931年、感田神社貝塚宮)
提灯と 月の浜辺に 踊りけり(1931年、貝塚その他の盆踊り)
水間川 流の中の 青薄(すすき)(1932年、和泉倦鳥俳句大会)
二ツ三ツ 蛍とばせて 寝入る家(1935年、水間蛍狩り)

この記事に関するお問い合わせ先

教育部 文化財保存活用室

電話:072-433-7126
ファックス:072-433-7053
〒597-8585
大阪府貝塚市畠中1丁目17番1号 本館5階

メールフォームによるお問い合わせ