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俳人松瀬青々(せいせい)と貝塚
貝塚市教育委員会では、平成4年度に貝塚市郷土資料展示室特別展『俳人松瀬青々と貝塚千古吟社(ちこぎんしゃ)』を開催しました。この特別展では、大阪を代表する俳人松瀬青々と貝塚で誕生した俳句結社「千古吟社」の作品を取り上げ、貝塚における先人の文芸活動の一端を紹介しました。今回のテンプスでは、その特別展から20年余りが過ぎたこともあり、貝塚の地を愛した大阪生まれの俳人、松瀬青々について改めて取り上げたいと思います。
松瀬青々について
青々(写真右下)は、本名を弥三郎といい、1869年(明治2年)、大阪大川町(現在の大阪市中央区北浜、写真左下)で生まれました。生家は薪炭商を営んでいましたが、家業には全く関心を示さない読書好きの子どもでした。小学校を卒業すると、商いのかたわら読書や学問を続け、次第に文学の世界に没頭していきました。

大阪市史跡顕彰碑「松瀬青々生誕地」

松瀬青々
1895年(明治28年)、第一銀行大阪支店に入行した頃から俳句を学び始めました。1897年(明治30年)には、高浜虚子選の『ほとゝぎす』、正岡子規選の新聞『日本』の俳句欄に青々の句が相次いで掲載され、翌1898年(明治31年)には子規に「大阪に青々あり」と賞讃されました。1899年(明治32年)、虚子の依頼で『ほとゝぎす』の編集を務めるために上京しますが、翌年には東京の生活になじめないなどの理由で大阪にもどります。
大阪に帰って間もなく、大阪朝日新聞社に入社し、俳句欄の選者を担当しました。また、1901年(明治34年)、俳誌『宝船』(のちに『倦鳥』(けんちょう)と改題)を刊行し、没年の1937年(昭和12年)までこれを主宰しました。
その生涯を作句活動に捧げた青々は、大阪を中心に広くその足跡を残し、明治以後の関西俳壇の基礎を築きました。
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更新日:2020年05月28日