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更新日:2020年05月28日

古文書をひも解く

願泉寺文書「秀吉禁制」1の写真

「秀吉禁制」1

願泉寺にのこる秀吉からの禁制


禁制(きんぜい)とは、禁止令のことで、戦国時代には寺社などが戦いに巻き込まれないように有力な武将にお願いして、戦いに巻き込まないことを約束したものです。願泉寺には羽柴(のちの豊臣)秀吉が貝塚寺内に宛てて出したものがあり、日付の異なる三通が現存しています。

古いと思われる順では、天正11年(1583年)5月付けで出された「秀吉禁制」1が最初の禁制です。「筑前守」(ちくぜんのかみ)(=羽柴秀吉)から「和泉国貝塚寺内」に宛てられています。秀吉は天正10年(1582年)6月に織田信長が本能寺の変で倒れると、翌年4月柴田勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、北庄(きたのしょう)城で自害に追い込みました。そして近江長浜へ帰ってきた際、願泉寺卜半家の初代である卜半斎了珍が秀吉の戦勝を祝って駆けつけ、この禁制を貰い受けたとの伝承がある史料です。

内容は、軍勢の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)や陣取のほか、民衆に対して迷惑をかける行為を貝塚寺内でおこなうことを禁止しています。このことは、寺内を戦いに巻き込まないように、味方の軍勢に知らせることを意味しています。

次に、10月27日付けで「秀吉」から「貝塚寺内」に宛てて出された「秀吉禁制」2は、天正12年(1584年)のものと推定されています。ちょうど、秀吉と徳川家康が小牧・長久手で相争い、その後の膠着(こうちゃく)状態のなか、家康と結び秀吉包囲網を形成していた根来・雑賀衆(ねごろ・さいかしゅう)のいる紀州を攻めるという風聞から、発給されたものと考えられています。しかし、実際にはこの時秀吉は、紀州攻めをおこなわず、紀州に対する威嚇(いかく)に過ぎなかったと位置付けられています。

内容は、出陣に際して、貝塚寺内での陣取や軍勢の出入りを禁じており、非戦闘地域として位置付けられたと思われます。

最後に、3月9日付けで「筑前守秀吉」から「貝塚寺内中」に宛てて出された「秀吉禁制」3は、天正13年(1585年)のものと推定されています。この禁制は紀州攻めで貝塚周辺で戦闘がはじまる3月21日から10日あまり前に出された史料です。内容は、前の史料とほぼ同じです。

こうした史料は、天正11年(1583年)7月から天正13年(1585年)8月までの“貝塚”本願寺時代を含め、貝塚寺内は秀吉と敵対せず、むしろ良好な関係を築いていたことを示すもので、天下統一を目指す時の権力との対立を避け、その後の宗派や町の発展を守ったと言えるでしょう。

願泉寺文書「秀吉禁制」2の写真

「秀吉禁制」2

願泉寺文書「秀吉禁制」3の写真

「秀吉禁制」3

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