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更新日:2020年05月28日

古文書をひも解く

◆江戸時代のおふれ

おふれとは為政者が出す法令のことで、江戸時代には全国をおさえる幕府と、個々の所領を治めた諸藩や寺社などが出しました。幕府から出されるものは老中が将軍の裁決を受けて、大目付・目付・寺社奉行・勘定奉行・江戸町奉行・京都所司代などに伝達され、その写しが全国に届けられ、一般民衆に触れ出されました。諸藩のうち、例えば岸和田藩では幕府からのものと藩独自のものを、郷会所という城内の村役人らの詰所を通じて村々に伝達されるしくみを持っていました。

内容は衣食住を含む習慣などの「倹約」を勧めるものや、凶悪な犯罪を犯し逃亡した者の人相書き、藩や奉行所の役人への対応など、さまざまなものがありました。村ではこうしたおふれを隣村から受け取り、また次の村へと伝達する順番が定められ、スムーズに全国津々浦々まで届けられるしくみがありました。届けられたおふれは帳面などに写し取る場合が多く、「触留」や「御用留」などと題して現代にのこされています。

今回は、そのうちから2つのおふれを紹介します。

古文書講座テキストおふれの写真

1つ目(写真上)の史料は、江戸時代のいつ頃のものかははっきりしませんが、ある年の7月に、岸和田藩の家老であった平生・久野の名前で出されたおふれです。内容は、藩士に対して、貝塚寺内や南海塚(みなみかいづか)(現在の貝塚市海塚)・脇浜辺りの茶屋や商人宿での飲食を禁止するものです。その理由として、城下町で酒を飲み酒乱となり、通行の妨げになるような事件も聞き及んでおり「不届」であること、岸和田藩の領外である貝塚寺内で同様な事件を引き起こすのは、岸和田藩の恥をさらすことになるとの考えがあったからでしょう。藩士の所属している組をはじめ武家奉公などに上がっている「召仕(めしつかい)之下々」まで必ず言い聞かせるようにと、記されています。藩士の一部は貝塚に近い新屋敷(現在の岸和田市南町辺り)にも暮らしており、岸和田城下だけでなく、貝塚寺内やその周辺にもよく酒を飲みに来ていたのでしょう。このおふれは藩士ではなく、かつて庄屋をつとめた家にのこされています。江戸時代、貝塚寺内や隣接する村や新町は、茶屋・宿屋のある歓楽街であり、新町を管轄していた村の庄屋には、藩士が来ないように、来たら知らせるように言われていたのかも知れません。いつの世も、深酒にならないようにという教訓でしょうか。

おふれ2の写真
おふれ3の写真

2つ目(写真上)の史料は、1687年(貞享4年)3月25日に、藩の家老ら5人の連名で出された7か条からなるおふれです。内容は、民衆の無駄遣いを抑えようとするもので、第1条では、お祝いの時の樽肴(たるざかな)(酒樽と酒のさかな)の禁止。祝儀のお金は10疋(ひき)~100疋(銭なら100文~1貫文、金なら1分=1両の4分の1まで)まで。葬礼・仏事・婚礼で振る舞う料理は「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」(おかずが3品・汁物が1品のこと)、酒の肴を1品、酒を5杯までと規程しています。第2条では、婚礼やお産の際のお祝いの贈答は身近な親族と仲人・産婆以外は禁止にしています。第3条では、産衣(うぶぎぬ)贈答はさらに範囲が狭く親子・兄弟・聟(むこ)・舅(しゅうと)に限定しています。第4条では、「奉加(ほうが)」は主に寺社などへの寄付を差しますが、これを禁止しています。第5条では、藩の役人らが村々に公用で出向いてきた際、料理を出すなら軽く「一汁一菜」までで、それ以外の酒・菓子を出してはならないとしています。第6条では、藩の役人が用事で呼び出している者以外の同席を禁じています。第7条では、村入用(村ごとに掛かった水利・裁判その他もろもろの費用)について無駄遣いをせず、村人全員で確認した上、庄屋・年寄の判を押し代官へ提出するように指示しています。

おふれはこのように、生活の細かい事柄にも藩が注文をつけていますので、江戸時代は息苦しい時代ととらえる考えがあります。しかし、同じ法令が繰り返し出されているところをみると、なかなか守られていないのではないかと思われる点もあります。ぜいたくを禁止し、無駄遣いを減らそうとする取り組みは、現代に通じるものがあるのではないでしょうか。

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