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孝恩寺 木造多聞天立像

更新日:2022年03月10日

孝恩寺 木造多聞天立像 1躯

孝恩寺木造多聞天立像

孝恩寺 木造多聞天立像

こうおんじ もくぞうたもんてんりゅうぞう

種別

重要文化財(美術工芸品 彫刻)

所有者氏名

宗教法人 孝恩寺

所有者住所

貝塚市木積798

時代

平安時代後期(11世紀から12世紀)

構造

一木造、彫眼、彩色

法量

像高 169.2センチメートル

指定年月日

大正2年4月14日

 

木積(こつみ)の孝恩寺は、明暦元年(1655年)に孝恩上人によって創建された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂(釘無堂)は、もとは深谷山観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年(1914年)孝恩寺が合併し、昭和36年(1961年)より同寺の本堂となりました。観音寺は、奈良時代の神亀3年(726年)に行基(ぎょうき)によって開創されたとされる寺院ですが、天正13年(1585年)の羽柴(豊臣)秀吉による紀州攻めに際して伽藍(がらん)や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。

多聞天は、四天王あるいは十二天の一つとして北方を守護し、わが国では七福神の一つ「毘沙門天」としても有名です。本像は、垂髻(すいけい)を結って冠を着し、裳(も)・広袖の衣の上から着甲して、左手は曲げて邪鬼上に立ちます。現在は亡失していますが、左手には宝塔を、右手には持物(じぶつ)を持っていたものと思われます。右袖口から先と左手首先はですが、両手の構えから当初より多聞天像であったと思われます。髻頂より足元まで、右袖口・左手首を含めてヒノキの一材から彫り出し、白土下地の上から彩色を全身に施しています。首の右辺から両足中央にかけて大きく割れ目がありますが、これは割矧(わりはぎ)の矧ぎ目である可能性があります。怒りを表情にあらわさず、また直立して少しも動勢をあらわさず、のびやかな長身で軽く邪鬼上に立つ姿は、平安後期も11世紀~12世紀の都風の作風を示すものであり、孝恩寺の仏像群中では異例の作例です。

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