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更新日:2019年10月04日

企画展「貝塚市の遺跡を掘る-昭和・平成の調査を振り返って-」(つづき)

地蔵堂遺跡で古墳を発見 昭和56・60年度、平成15年度調査(つづき)

さらに、平成15年度に市立南小学校で校舎の増築工事に伴って調査を行いました。事前の試掘調査では、運動場で方墳の一部の周溝(4号墳)を発見し、発掘調査を実施した結果、2号墳の周溝の続き、近接して新たに円墳(5号墳)の周溝、少し離れて古墳の周溝と考えられる溝(6号墳)を発見しました。

これらの古墳が、墳丘を削り取られて周溝だけが残る状態で発見されたことは、先にも述べましたが、墳丘を削り取られたのは中世の時代と考えられます。中世には、土地の制度が変わり貝塚市域は高野山などの荘園となります。調査では、中世の柱穴や井戸も見つかっており、この時代に古墳を壊して建物を建て、井戸を掘り宅地にしたことがわかりました。遺跡発掘調査から、その土地の移り変わり、歴史がわかったのです。

発見した2号墳・5号墳と井戸の航空写真

発見した2号墳・5号墳と井戸

貝塚寺内町遺跡の発掘調査 平成4年度調査

室町時代末期に、市域の海岸部に新しい町ができました。この町は、浄土真宗の寺院(後の貝塚御坊願泉寺(ごぼうがんせんじ))を中心にして造られた貝塚寺内町(じないまち)です。町の南北に紀州街道が通り、まわりには濠(ほり)が掘られ、濠を掘った土を盛り上げて土塁(どるい)が築かれました。

平成4年に北町の紀州街道沿いで行った発掘調査では、丸瓦、軒平(のきひら)瓦などの瓦が多く見つかっています。瓦の中には赤く焼けた瓦があり、赤く焼けた土や炭が見られることから、調査地が火災によって焼失したことがわかりました。

また、中国から輸入した白磁碗(はくじわん)、備前焼大甕(びぜんやきおおがめ)も見つかっており、特に、備前焼大甕は3点並んで地面に埋められた「埋甕(うめがめ)」の状態で見つかっています。商家などの建物内に設置されたものと考えられ、大甕の表面に「二石(こく)入」(約360リットル)と線刻(せんこく)されていることから、中には水や油などの液体を貯蔵していたと考えられます。調査地は、見つかった白磁碗や備前焼大甕の時期から判断して、16世紀後半から17世紀初めにかけての遺構と考えられます。

この調査成果により、寺内町の原初集落は紀州街道周辺に造られ、その成立時期は、歴史学(文献史学)で考えられている16世紀後半であることが明らかになりました。

見つかった備前焼大甕の現場写真

見つかった備前焼大甕

今回の企画展では、これ以外にも遺跡から出土した遺物、見つかった遺構の記録写真などの発掘調査成果をもとに、特徴のあるものを旧石器時代から江戸時代まで、時代別に振り返っています。

また近年、文化財資料の公開活用が盛んに取り組まれるようになっています。このような展示を通して市民の皆さんに調査成果を紹介していきますので、ぜひ郷土資料展示室に足をお運びください。