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更新日:2019年10月04日

企画展「貝塚市の遺跡(いせき)を掘る-昭和・平成の調査を振り返って-」

貝塚市内の遺跡を保護するため、市内の遺跡発掘調査は昭和50年代から平成の時代へと継続して行ってきました。令和の時代を迎えて、貝塚市郷土資料展示室では上記タイトルの企画展を開催しています。今回のテンプスでは、貝塚市の歴史を考える上で、新たな発見となった地蔵堂遺跡、貝塚寺内町(じないちょう)遺跡の2つの発掘調査をピックアップして、紹介します。

<遺跡とは?>

昔の人の暮らした跡が、土の中に埋もれている場所を『遺跡』と呼びます。遺跡からは、建物、水田、道路、溝などの遺構(いこう)、昔の人が使った道具(土器や石器など)や建物の瓦などの遺物(いぶつ)が見つかることがあります。

遺跡は、1.地表に土器の破片が見られる範囲をくくったもの、2.古絵図などによって寺社や城跡などの場所や範囲が推定できるもの、3.開発によって遺物や遺構が見つかって新たに遺跡とされたものがあり、その場所や範囲は遺跡地図にまとめています。

昭和53年に市内の遺跡は56カ所でしたが、その後、開発に伴う発掘調査の中で次々と遺跡が発見され、現在124カ所まで増加しています。

貝塚市の遺跡分布図(地蔵堂周辺)の画像

貝塚市の遺跡分布図(部分)

(7.丸山古墳、8.地蔵堂廃寺、72.地蔵堂遺跡、60.王子遺跡、太線は熊野街道)

南小学校と丸山古墳と円墳・方墳の配置図の画像

丸山古墳と円墳・方墳

地蔵堂遺跡で古墳を発見 昭和56・60年度、平成15年度調査

昭和56年(1981年)、市立南小学校の校舎増築のために発掘調査を実施した結果、古墳時代の須恵器(すえき)、墳丘(ふんきゅう)が削り取られた周溝(しゅうこう)が残る円墳(えんぷん)(1号墳)を発見しました。その後、昭和60年(1985年)には、昭和56年度に調査した地点を拡張して発掘調査を実施し、1号墳の続きの周溝、新たに円墳(2号墳)の周溝の一部も発見しました。また、体育館の建替え工事に伴って発掘調査を行い、方墳(ほうふん)(3号墳)を発見しました。これらの古墳を発見するまで、前方後円墳の丸山古墳(国史跡)は単独で造られたと考えられてきましたが、複数の古墳が築かれたことがわかり、地蔵堂古墳群と名付けました。