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更新日:2024年01月31日

岩橋善兵衛(いわはしぜんべえ)と伊能忠敬(いのうただたか)

貝塚市が生んだ江戸時代の科学者、岩橋善兵衛(1756年~1811年)は、当時日本一性能の良い望遠鏡を製作しました。善兵衛は生涯を通じて数多くの望遠鏡を製作しましたが、現存する望遠鏡の中で、正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬(1745年~1818年)が全国測量で用いた観星鏡(かんせいきょう、天体望遠鏡)2台(千葉県香取市  伊能忠敬記念館所蔵、下写真)は国宝「伊能忠敬関係資料」に指定されています。本号では、善兵衛の望遠鏡がつないだ善兵衛と忠敬の関係について紹介します。

観星鏡と接眼レンズ

観星鏡と接眼レンズ枠

善兵衛の望遠鏡と寛政の改暦

高橋至時と間重富

高橋至時(左)・間重富(右)
善兵衛ランドキャラクター

1756年(宝暦6年)、岸和田藩領内の脇浜新町(現在の貝塚市新町)に生まれた岩橋善兵衛は、独立後、眼鏡の玉(レンズ)磨き職人として生計を立てながら天文暦学を中心とした学問を学びました。そして、1793年(寛政5年)、自作の望遠鏡「窺天鏡」(きてんきょう)を完成させ、自ら京都や大坂(大阪)に出向いて当時の学者や知識人たちを集めた天体観測会を行うことで、その望遠鏡の性能を宣伝しました。

ちょうどこの頃、幕府によって西洋天文学を取り入れた改暦事業(寛政の改暦)が計画されました。広く人材を求めた結果、1795年(寛政7年)、大坂の天文学者麻田剛立(あさだごうりゅう)門下であった武士の高橋至時(たかはしよしとき)が幕府天文方(てんもんかた)として、また商人の間重富(はざましげとみ)が改暦御用(かいれきごよう)として抜擢され改暦事業が進められました。この改暦事業では、正確な暦を作るために天体観測が不可欠でした。そのため、性能の良い善兵衛が製作した望遠鏡が重富‐至時ルートで江戸浅草竹町(現在の東京都台東区)にあった幕府の天文台「司天台(してんだい)」に設置されました。そして、同じルートで至時周辺の幕府に仕える人びとにも提供される中、至時に師事した伊能忠敬の手にも善兵衛の望遠鏡が渡ったのでした。
 

伊能忠敬と善兵衛の望遠鏡

伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅  千葉県香取市

1745年(延享2年)、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)に生まれた伊能忠敬は、1762年(宝暦12年)、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市)の酒造家伊能家に婿入りし、商人や佐原村の名主(なぬし)としてこの地で30年余りの前半生を過ごしました。1794年(寛政6年)、家督を長男に譲り、翌1795年、江戸へ出た忠敬は19歳年下の高橋至時の弟子となりました。

至時に弟子入りした忠敬は、寝る間も惜しんで天文暦学や測量学などの勉強に励みました。天体観測についても教えを受けた忠敬は、観測技術や機器に精通していた間重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作りました。おそらく、この天文台には様々な観測機器とともに岩橋善兵衛が製作した望遠鏡が設置されていたと考えられます。善兵衛の望遠鏡は忠敬が全国測量に出発するまでの約6年間、悪天候の日を除いて昼夜を問わず毎日行われたといわれる天体観測で活躍したと思われます。

忠敬が最初の全国測量に出発したのは、1800年(寛政12年)の蝦夷地(えぞち、現在の北海道)測量でした。この測量は、名目上はたびたびのロシア船の来航により緊張状態にあった蝦夷地の正確な地図を作成することが目的でしたが、忠敬と至時のより正確な暦を作成するために必要な地球の大きさを計ること、そのために緯度1度分の正確な距離を測ることでした。そのため、測量隊一行は荷物を船で運べる海路を使わず、陸路を測量しながら進み、夜は天体観測を行うという毎日でした。測量隊が持参した観測機器には、善兵衛が製作したものかと思われる天体観測用の「星鏡」2本(国宝の「観星鏡」と同じものだと思われます)と「望遠鏡」2本が含まれており、毎日の測量と天体観測で活躍したと思われます。

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