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更新日:2023年03月01日

第126回かいづか歴史文化セミナー 講演会「木島の総社 稲荷神社の由緒と歴史」

第126回セミナーの様子

講義に聞き入る受講者のみなさん

令和4年11月23日(水曜日・祝日)に、第126回かいづか歴史文化セミナー講演会「木島の総社 稲荷神社の由緒と歴史」を、森町会館において開催しました。今回のテーマは、本市森にある稲荷神社の由緒と歴史について、平成27(2015)年にこの神社で実施した古文書調査の結果をもとに報告しました。
講演会の冒頭では、前提となる木島の範囲の変遷を確認しました。木島は平安時代から鎌倉時代にかけては「木島郷(きのしまごう)」と呼ばれ、現在の貝塚市北東半分と隣接する岸和田市土生(はぶ)・河合に及んでいたと推定されています。その後、木島郷から麻生郷(あそごう)が分離独立するなど、室町時代以降、旧木島村(清児(せちご)・名越(なごせ)・森・三ツ松(みつまつ)・水間)の範囲にまで縮小していきました。稲荷神社の由緒は、地元に残る「神社誌」という記録によると、稲荷大神(いなりおおかみ)が和銅2(709)年、京都伏見の稲荷山に鎮座したことを始まり(伏見稲荷大社では和銅4(711)年の伝承)とし、本市森には建保6(1218)年に木島郷の氏神としてお祀(まつ)りしたと記されています。また、明治41(1908)年に木島村にあった神社が稲荷神社に合祀され、今となっては見つけることが難しい神社跡について、地字(ちあざ)や地番が記載された史料から場所を特定し、作成した地図をあわせて紹介しました。
参加者の方からは「今まで稲荷神社の歴史を知る機会がなく、今回聞けて良かった」、「稲荷神社のルーツがわかった」とのご感想をいただきました。

古文書を読み解く~講座テキストから~

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願泉寺文書「御一新ニ付献米之記 弁事御役所江御朱印差出記」の表紙画像

江戸時代において、地頭(領主)として貝塚寺内を治めてきた願泉寺卜半(ぼくはん)家は、慶応4(1868・明治元)年1月3日から始まった戊辰戦争を契機に大きな変化を余儀なくされます。支配体制は、江戸幕府から明治政府に移ったため、卜半家は幕府によって認められてきた貝塚寺内の領主としての地位を失うことになります。
願泉寺文書にある「御一新ニ付献米之記・弁事御役所江御朱印差出記」(写真)によると、慶応4年1月17日に「此節京都近国之寺社迄身分相応之米金追々献上相成候間、手後レ相成候而ハ不宜」とあり、京都やその周辺の国々の寺社はその規模に応じて献金・献米を行っていて、手遅れとならないようにと伝えています。そのため願泉寺でも、関わりの深い公家の富小路(とみのこうじ)家などと相談し、1月23日に玄米50石(125俵)を金穀御役所へ納めたことが記されています。さらに4月、海岸防御のためとして、硝石をまとめて1000斤(600kg)、その後毎年100斤ずつ献上することを申し入れています。
この古文書の詳細は、古文書講座69「戊辰戦争と貝?寺内の支配」にて解読します。

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