現在の位置

6ページ

更新日:2019年02月01日

小学校巡回展示「岩橋善兵衛の科学技術」

平成30年9月14日から12月3日にかけて、市内11小学校で、それぞれ1週間ずつ、巡回展示「岩橋善兵衛の科学技術」を開催しました。

貝塚市教育委員会では、平成29年3月に『貝塚・発見伝‐貝塚学‐』を刊行し、歴史・文化・自然の様々な魅力あるまち「貝塚」を児童自身で発見してもらおうと取り組んでいます。その趣旨に沿って、歴史遺産である当時の資料に、子どもたちが直接触れることで、歴史を身近なものとしてとらえてもらえるよう小学校での巡回展示を行いました。

今回は、江戸時代に貝塚で望遠鏡作りを始め、天文学の普及に努めた岩橋善兵衛の業績を紹介し、善兵衛の著書『平天儀図解(へいてんぎずかい)』と『平天儀』のレプリカ、天体観測に用いる望遠鏡「窺天鏡(きてんきょう)」の模型を展示しました。実物に近い形の展示物に多くの子どもたちが興味や関心を持ち、熱心に見入っていました。

こうした取り組みを通じて、地元のまち貝塚に愛着を持ち、学び育ったことを誇らしく語ることのできる子どもの育成につなげていきたいと考えています。

 

展示物(レプリカ)に触れる子どもたち

岩橋善兵衛と望遠鏡7‐善兵衛をめぐる人びと その4‐

善兵衛の望遠鏡は、初めて西洋天文学が取り入れられた暦『寛政暦』(かんせいれき)の作成に大きな役割を果たしたことが知られています。今回は、この改暦の中心となった高橋至時(たかはしよしとき)と間重富(はざましげとみ)が師事した麻田剛立(あさだごうりゅう)を紹介します。

剛立は、豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)杵築(きつき)藩の出身でしたが、39歳の時に脱藩し、大坂に出て姓を麻田と改めました。

大坂の学問所「懐徳堂」(かいとくどう)の中井竹山・履軒(ちくざん・りけん)兄弟の助けを得て、本町で医師として開業するとともに、暦学(天文学)の私塾「先事館」(せんじかん)を開きました。

先事館では、最新の西洋暦学を漢訳した『崇禎暦書』(すうていれきしょ)をもとに、そこに書かれた理論を天体観測で確認するという実証的な手法が取られました。剛立は、当時の暦に記されていなかった宝暦13年(1763年)9月1日の日食を指摘していたことから幕府の目に留まり、寛政の改暦にあたって暦学御用を命じられました。しかし、剛立が高齢を理由に辞退したため、門弟の高橋と間が暦学御用に抜擢されることになりました。

善兵衛の「仕入方直段控帳」(しいれかたじきだんひかえちょう、「直段」は値段のこと)には、漢字に誤りがありますが「本町心斎橋東へ入 浅田興立様・同玄達様」とあり、剛立と養子の立達(りゅうたつ)が得意先として記されています。

 

「仕入方直段控帳」に見られる「浅田興立・玄達」(麻田剛立と立達)の記載部分