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更新日:2019年06月01日

要(かなめ)家文書からみた七人庄屋(しちにんじょうや)

これまでテンプスでは、要家文書の紹介を数度にわたり行ってきました。また、古文書講座のテキストとしても活用してきました。そこで今号では、現在開催中の貝塚市郷土資料展示室「貝塚市の指定文化財」展 第1期での特集展示にちなんで、要家文書からみた七人庄屋の特色を紹介します。

七人庄屋の武士的特権

岸和田藩では、有力な庄屋7人を「七人庄屋」と呼び、他の庄屋と区別していました。自身の暮らす村の庄屋を務める点では、他の庄屋と変わりませんが、藩と村々との間の調整役としての役割を与えられていました。彼らは、戦国時代までは地侍(じざむらい)や土豪(どごう)と呼ばれる地域にいた武士でしたが、兵農分離により村に留まり庄屋となった由緒(ゆいしょ)を持っていました。そこで藩は彼らに対し、苗字(みょうじ)・帯刀(たいとう)など武士的特権を認めて、円滑な地域支配の一翼を担わせました。

なお、寛政元年(1789年)、畠中(はたけなか)村(現在の貝塚市畠中)・神前(こうざき)村(現在の貝塚市加神の一部)庄屋要源大夫(げんだゆう)は、市場村(現在の泉南市信達市場)庄屋小川信左衛門に代わって、七人庄屋の列に加わり、明治時代の廃藩置県までその役を務めました。

他所帯刀御免につき願書

要家文書 他所(たしょ)帯刀御免につき願書 1通

他所帯刀御免につき願書の解説

寛政3年(1791年)6月8日付で、畠中村・神前村庄屋源太夫から岸和田藩の代官に対して出した藩領以外で刀を差すこと(=「他所帯刀」、赤色傍線部)を許可してもらうための願い書の控えです。すでに藩主への年頭と江戸から帰国した際のあいさつ、初米(はつまい、最初の収穫米)の献上、暑寒御機嫌窺(しょかんごきげんうかがい、現在の中元・歳暮のあいさつの原型)(青色傍線部)などが許可されていますが、親がかつて認められていた(緑色傍線部)他所帯刀を自分にも認めてほしいと、切々と願っています。