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更新日:2018年10月05日

明治時代の石造物 

町と村の境目をあらわす石柱 海塚領境界明示標柱

 南海貝塚駅西口の交番前に高さ1.5メートルほどの石柱が立っています。
現在歩道上に鉄の鎖で囲まれていますが、よく見ると「従是東西海塚領」「明治参拾年参月」と文字が彫り込まれています。石柱の位置からは、ほぼ線路の浜側に沿って、当時の貝塚町(江戸時代の貝塚寺内町とほぼ同じ)と麻生郷村海塚との境目があったように見えます。
 また、難波―佐野(現在の泉佐野)間に南海鉄道(現在の南海電気鉄道)が開通したのが1897(明治30)年9月のことですから、標柱が建てられた3月にはすでに線路が敷かれ、蒸気機関車が試運転を始めていた時期ではないかと考えられます。
貝塚町と麻生郷村との境は、その頃にはまだ互いに入り組んでいて不便な状況でした。この事態を解消するため、1912(大正元)年11月、貝塚町と麻生郷村との境目を鉄道線路の西側にすることで、町村は合意しました。
 さて、では標柱はなぜ建てられたのかということになります。当時の麻生郷村海塚に暮らす人びとにとっては、熱心な鉄道誘致の証し、海塚こそが鉄道建設に協力したという意識の表れだったのかも知れません。貝塚市発展の基礎となる南海鉄道の建設に、地域の人びとの努力が大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

海塚領境界明示標柱

地域の生活改善に尽力した先人の碑 福原正雄頌徳(しょうとく)碑

 市立中央小学校に沿って南北に通る道を、和歌山方面に向かうと、3メートルを超える石碑が見えてきます。
 この石碑は福原正雄(1856-1937年)氏の功績をたたえ、地元の人たちの手で、1907(明治40)年に建てられました。
 福原氏は福田村(現在の貝塚市福田)に生まれ、1887(明治20)年に麻生中村外(ほか)六ヶ村戸長(こちょう)役場用掛(ようがかり)となり、1897(明治30)年には麻生郷・島組合村長となりました。そして、村の懸案であった麻生井堰(あそいぜき)の建設を1903(明治36)年に果たしました。
 麻生井堰は、近木川中流三ツ松付近に設けられた農業用水を引き込むための堰です。しかし、江戸時代から明治にかけて洪水のたびに何度も壊れましたが、福原氏が先頭に立ち、ようやく頑丈な堰を作ることがかないました。
 その後も、福原氏は島村小学校(市立東小学校の前身)の再建や、泉南郡畜牛組合(のちの泉南郡畜産組合)の設立、地域の生活条件改善をめざす融和運動にも積極的に取り組むなど、地域の発展に尽力しました。
 石碑は地域の人びとのために貢献した福原氏に対し、村民からの感謝を表す記念碑として作られ、111年後の今もなお、当時の人びとの思いを伝えています。
 

福原正雄頌徳(しょうとく)碑