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更新日:2018年10月05日

明治時代の石造物 

 今年は明治元年から150年という節目を迎え、貝塚市郷土資料展示室でも、現在企画展を開催しています(表紙写真)。今回のテンプスでは市内に残る明治時代の石造物にスポットを当て、製作された理由などを明らかにします。 

物部氏ゆかりの人物を顕彰する 捕鳥部万(ととりべのよろず)の道標

 紀州街道と津田川が交差する地点にかかる岸見橋南端の交差点に高さ1.8mほどの道標が建てられています。この場所は紀州街道から岸和田市の阿間河滝(あまがたき)方面に通じる街道が分岐する地点です。
 この道標は、1871(明治4) 年正月に建てられたものです。正面に「忠臣捕鳥部万墓并(ならびに)犬塚 是(これ)ヨリ三十丁」と刻まれ、目的地にあたる捕鳥部万の墓と犬の墓までの距離が30丁(=約3.3キロメートル)先にあることを示しています。左側に和歌があり、右側に「発起」人1人と「補助」の3人の名前が刻まれています。「補助」の内の「津田租(つだはじめ)」は津田村、「塚本太二右衛門」は八田村(現在の岸和田市八田町)のそれぞれ庄屋を務めていました。
 捕鳥部万は、飛鳥時代の人で、物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)の資人(とねり=特定の貴族の警固や雑役などに当たる人)でした。『日本書紀』用明天皇条には、587(用明2)年、守屋の死後、万の妻の実家があった茅渟県有真香邑(ちぬのあがたありまかむら 現在の貝塚市久保を含む津田川中流域一帯と推定される)に逃れ、朝廷軍を相手に大奮戦し自害したことが記されています。また、万が自らのことを「天皇之楯(たて)」と言ったことが記されており、このことが道標にある「忠臣」とされる理由だと考えられます。江戸時代に『日本書紀』などの研究が進む中、歴史に埋もれていた捕鳥部万が忠臣として再評価されていったことでしょう。
 参詣者が地元で大切に守られてきた捕鳥部万の墓と犬の墓に、迷わずたどり着けるように、との庄屋たちの思いが伝わってきます。

捕鳥部万の道標

紀州街道と粉河街道の分岐点 国道を示す道標

 紀州街道を寺内町地域から和歌山方面へ向かうと、粉河街道との分岐点(脇浜町会館南側のT字路)にやってきます。その分岐点には1886(明治19)年に大阪府が建てた高さ1.8メートルほどの道標があります。
 正面左に「左粉河街道 犬鳴山不動 粉河道」、正面右に「右国道第廿九号路線 佐野 加太 和歌山道」と刻まれています。その当時は国道29号と呼ばれていましたが、新たに、車が通るための、広くまっすぐな道が造られました。新たな道は、国道16号、国道26号と名前が変わり、かつての国道29号は、石柱にのみ記録として残っています。

国道を示す道標