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更新日:2018年06月01日

貝塚市内に残る行基伝承

   行基(ぎょうき、668~749年)は、畿内(近畿地方)を中心に、人びとに仏教の教えを広めるとともに、貧しい人びとの救済や土木・治水などの社会事業を進めたことでも知られる奈良時代の僧です。今年、平成30年は生誕1350年にあたります。
   貝塚市内では、水間の厄除け観音として有名な水間寺【表紙写真】や、木積(こつみ)にあった観音寺(国宝の観音堂(釘無堂)を所有する孝恩寺の前身)を創建したほか、市内最大のため池である永寿池【表紙写真】や、近木川河口にあったと考えられる神前船息(こうざきのふなすえ)という港を築くなど、様々な伝承が残っています。
   今号のテンプスでは、貝塚市内に残る行基伝承の中から主なものを紹介します。

行基と水間寺

中世の武士たちは、自らが支配する地域の有力な寺社を保護するため、境内地の保護や土地の寄進などを行ってきました。こうした行為は江戸時代に入っても続けられ、貝塚市域では、水間寺や馬場の遍照寺(へんじょうじ)に、田畑の寄進や山林の年貢などの免除を示す歴代藩主の黒印状が残っています。

水間寺の創建については、寺に残る縁起(えんぎ)などに次のような伝承が記されています。天平(てんぴょう)16(744)年2月初午(はつうま、2月になって最初の午の日)の夜、聖武天皇(しょうむてんのう)は、奈良の都から南西の方角に聖観音(しょうかんのん)が現れるという夢を見ました。そこで行基にその出現の地を探すよう勅命を下しました。行基は都から白鳥の導きによって和泉国にたどりつきました。その後、十六童子(じゅうろくどうじ)によって水間の地に導かれました。そして水間の滝【表紙写真】で龍神の化身である老人から聖観音像を授かり、その像をまつる寺院として水間寺を創建しました。
この伝承に登場する白鳥が1枚の羽根を落として飛び去った地が鳥羽、白鳥を見失い途方に暮れていた行基の前に十六童子が現れた地が清児(せちご)で、この2町の地名は、水間寺創建にまつわる行基伝承が由来といわれています。
現在、清児町内の十六童子が現れたとされる場所にはちご塚【表紙写真】という小さな石がまつられています。また、水間寺の正月行事である水間千本搗餅つき(みずませんぼんづきもちつき・貝塚市指定文化財)は、聖観音像を授かったことを祝って、行基と十六童子が餅つきをしたことに由来すると伝えられています。

「水間寺縁起」鳥羽・清児水間寺蔵

「水間寺縁起」鳥羽・清児 水間寺蔵

水間千本搗餅つき

水間千本搗餅つき(水間)

行基と木積の観音寺

貝塚市木積にはかつて観音寺という行基が築いた寺院があったと伝えられています。観音寺の観音堂は、現在の孝恩寺の本堂(国宝観音堂)であり、文化財収蔵庫に収蔵されている重要文化財の仏像群【表紙写真】は観音寺の諸堂でまつられていたものと考えられています。
また、古代の木積周辺は木島杣山(きのしまのそまやま)とよばれる木材の産地であったと伝えられています。『行基菩薩遺戒』(ぎょうきぼさついかい)によると、行基が四十九院を建立する際に、皇族である橘諸兄(たちばなのもろえ)の領地であった木島杣山の材木を譲り受けたことが記されています。とくに木積の地は材木の集積地であったことから木積と名づけられたと伝えられています。

孝恩寺観音堂

”釘無堂”として有名な孝恩寺観音堂(国宝)