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更新日:2018年02月01日

岸和田藩と関係のあった貝塚市域の寺院

岸和田藩の歴史は、天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀吉の紀州攻め後に岸和田城主となった小出秀政(こいでひでまさ)より始まりました。その後、元和5年(1619年)より松平氏が藩主となり、寛永17年(1640年)より明治4年(1871年)まで岡部氏が、13代、約230年にわたって藩を支配しました。
小出氏の時代には秀吉の直轄領であった地域もありましたが、江戸時代の貝塚市域は、願泉寺卜半(ぼくはん)家が支配する貝塚卜半寺内(じない)と、寛文元年(1661年)以降に岡部氏の分家領となった沢村を除いて、全ての地域が岸和田藩領でした。そのため、当時の貝塚市域に住んでいた人々は、岸和田藩と様々な関係を結んでいました。
そのような中から、今回のテンプスでは、岸和田藩と関係のあった貝塚市域の寺院についての事例を紹介します。

岸和田藩主に保護された寺院

中世の武士たちは、自らが支配する地域の有力な寺社を保護するため、境内地の保護や土地の寄進などを行ってきました。こうした行為は江戸時代に入っても続けられ、貝塚市域では、水間寺や馬場の遍照寺(へんじょうじ)に、田畑の寄進や山林の年貢などの免除を示す歴代藩主の黒印状が残っています。

水間寺に残る黒印状

寛永15年(1638年)に藩主松平康重(やすしげ)が水間村の田畑を仏前に捧げる灯籠(とうろう)の油代として寄進したことを示す黒印状(下図版)が残っており、同じ内容を示した岡部氏歴代の黒印状が残されています。

水間寺に残る松平康重黒印状の写真

松平康重黒印状 水間寺所蔵

遍照寺に残る黒印状

元和6年(1620年)に康重が杉本坊(遍照寺の前身。黒印状の宛先に「泉州高野山杉本坊」とあることから和泉国における高野山の子院の一院であったと考えられます)の所有する「弘法大師御影堂」の山林にかかる年貢などを免除する旨の黒印状が残っています。この黒印状は、山林を寺領として保護する意味を持つもので、「先規(せんき、=先例)に任せ」という表現があることから小出氏以前より保護を受けてきたものだと思われます。水間寺と同じく、岡部氏歴代の黒印状が残されています。