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更新日:2020年05月29日

要家(かなめけ)住宅の国登録有形文化財を記念して イベントを開催しました

平成29年6月10日(土曜日)に、国の登録有形文化財として登録されることになった本市畠中(はたけなか)の要(かなめ)家住宅について、特別見学会とフォーラムを開催しました。
午前中に行った特別見学会は、10時からと11時からの2回、それぞれ30名限定で行いました。表書院、離れ書院、表長屋門など登録対象の11件の建造物を中心に約40分をかけて邸内を見学しました。参加者の皆さんには、文化財担当職員の説明に熱心に耳を傾けていただきながら、岸和田藩の七人庄屋(しちにんじょうや)屋敷を構成する建造物群を見学していただきました。
午後からのフォーラムでは、和歌山大学名誉教授の藤本清二郎さん、本市文化財保護審議会委員の田中正視さん、大阪府教育庁文化財保護課の地村邦夫さんの3名を講師に迎えました。藤本さんには畠中村・神前(こうざき)村の庄屋であり岸和田藩の七人庄屋であった要家のもつ歴史的な意義について、田中さんからは「生物多様性の聖域」ともいえる広大な要家屋敷がもつ自然環境的な意義について、地村さんからは要家住宅の建造物の特徴と現在の文化財保護制度について、それぞれご講演いただきました。参加者の皆さんとともに地域の財産である要家について理解を深める機会とすることができました。

要家住宅の周囲での解説の写真

説明を熱心に聴く参加者のみなさん

フォーラムでの講演後の意見交換の写真

フォーラムでの講演後の意見交換

岩橋善兵衛と望遠鏡4 善兵衛をめぐる人びと その1

「仕入方直段控帳」の木村蒹葭堂の記載がある部分の写真

前号までは、善兵衛が自身の製作した望遠鏡の販路を広げるための宣伝として行った、京都での天体観測の様子を紹介しました。今号からは、善兵衛と当時の知識人たちとの交流を紹介します。

善兵衛は、京都ではじめての天体観測を行った年である寛政5(1793)年の秋、大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)という人物を何度も訪ねています。その中で、10月4日に「日眼鏡」(ひめがね)を持参し、翌5日に大坂備後町(びんごまち)の平野屋作兵衛宅の座敷で「眼鏡見物」(天体観測)を行ったことが『蒹葭堂日記』に記されています。

木村蒹葭堂(1736~1802年)は、通称を坪井屋吉右衛門といい、造り酒屋等を営む商家に生まれました。博物学者、文人画家、出版家等さまざまな顔を持ち、近年はなにわの「知の巨人」と称され、高い評価を受けている人物です。善兵衛が遺した寛政10(1798)年正月吉日付の「仕入方直段控帳」(しいれかたじきだんひかえちょう、「直段」は値段のこと)〈上写真〉にも、「淀屋橋伏見町南へ入東側/坪井屋吉右衛門/則(すなわち)けんか堂」と記されています。

善兵衛は、当時の蒹葭堂の屋敷に日々学者や文人たちの訪問が絶えなかったことを知り、大坂ではまず蒹葭堂を訪ねて自身の製作した望遠鏡を宣伝したものと思われます。蒹葭堂を訪ねたことで、のちに幕府の改暦事業の中心となった大坂の天文家、高橋至時(よしとき)、間重富(はざましげとみ)らにも善兵衛の望遠鏡の存在が知られることとなり、望遠鏡の販売ルートに加え、善兵衛自身の知識人たちとの交流圏をも大きく広げることとなったと思われます。