現在の位置

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更新日:2017年06月21日

佐野村の藤田十郎太夫・吉田久左衛門
中家に次ぐ格付けにあった佐野村(現在の泉佐野市域)の藤田十郎太夫・吉田久左衛門は、「佐野両人」とも呼ばれました。佐野村は2500石を超える大きな村であり、2人が庄屋となり治めました。こちらも松平氏の治世に筆頭庄屋を勤めるなど、17世紀初頭から村落支配に関わっていたことがわかります。

樽井村の脇田右馬太郎・畠中村の要源太夫・岸和田村の岸六右衛門
続く位置づけに、樽井村(現在の泉南市域)の脇田右馬太郎・畠中村の要源太夫・岸和田村(現在の岸和田市域)の岸六右衛門が置かれました。村高を比較すると岸和田村が1991石余、樽井村が1312石余、畠中村と神前村合わせて520石余の順です。村高は小さいものの、要源太夫には所持高のうち100石の高役が免除される特権を、1600(慶長5)年に当時岸和田藩を治めていた小出秀政(こいでひでまさ)から与えられ、それ以後藩主が替わっても引き続き認められていました。

小出秀政墨付

【写真解説】要源太夫所持高100石分の役儀を免除することを記した小出秀政が「こき(近木)の庄庄屋」へ出した墨付(すみつけ)の写し


このほか、七人庄屋たちは苗字帯刀や藩主へのお目見え(夏・冬・年頭・江戸から帰国の際の挨拶)など基本武士に許されていた特権を藩から公認されることで、家の格付けを高く引き上げていきました。実際、1.藩主のため、国のために尽力すること、2.幼少より学問や習字の上達に努力すること、3.武芸を心得ておくこと、の3点を藩より求められました。このように、武士同様の教育を受けて、武士身分に近い存在になるとともに、村落支配の重責を与えられていたと考えられます。

藩主の御成り(おなり)と魚釣り 

岸和田藩主は「殺生(せっしょう)」(狩りのこと)などの用事で領内に出掛ける際、その道中、七人庄屋らの屋敷に立ち寄り、休憩や昼食を取ることがありました。これを「御殿様御成り」と記し、家のほまれとしていました。
要家文書には、日記などにこの「御成り」の記述が見られます。1726(享保11)年3月9日には、当時数え年15歳の藩主岡部長著(おかべながあきら)が要家の泉水(池のこと)で釣りをし、170匹のフナを釣り上げたことが書かれています。その他4月6日まで4回訪問し、大量のフナのほかコイやウナギも釣り上げ、藩主がご満悦だった様子が伝えられています。

釣り記録

【写真解説】3月13日の記録にも「鮒百」匹と「太キうなき(ウナギ)」を釣り上げたとあります。