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更新日:2017年06月21日

岸和田藩の七人庄屋(しちにんじょうや) 

要(かなめ)家(貝塚市畠中)は、中世土豪(どごう)の系譜を引き、江戸時代には岸和田藩の七人庄屋を勤めた家柄です。今回、要家の11件の建造物が国の登録有形文化財に登録されることになったのを記念して、要家を含む岸和田藩の七人庄屋について特集します。

岸和田藩と七人庄屋
岸和田藩は、現在の岸和田市から泉南市までの4市2町に広がっていた藩です。1585(天正13)年の羽柴(豊臣)秀吉の紀州攻めの後、小出氏、松平(松井)氏が藩主を勤めましたが、1640(寛永17)年、岡部宣勝(おかべのぶかつ)が摂津国高槻から移り、以後明治維新まで岡部氏が13代にわたって藩を治めました。宣勝の時代には6万石の所領を支配しましたが、2代行隆(ゆきたか)が相続する際、弟2人にも所領を分け与え、以後5万3千石となりました。
七人庄屋はこの岡部氏の下、村々を支配するため領内の有力な庄屋の内から選ばれた7人のことを指します。
幕府直轄領や多くの藩領では大庄屋の制度が取り入れられ、10か村を超える村々を束ねる長、村々の代表として各村の庄屋の上に大庄屋が置かれました。
これに対し、岸和田藩の七人庄屋は108か村とも数えられる所領をいくつかに分けて担当することはせず、7人が岸和田城内の郷会所に集まり、藩領村々全ての事柄を協議する点で大きく異なります。当初は5人とも伝えられ、その構成が変化する中7人となり、1789(寛政元)年に市場村(現在の泉南市域)の小川新左衛門に代わって神前(こうざき)村(現在の貝塚市加神(かしん)の一部ほか)の庄屋を兼帯していた畠中村(現在の貝塚市畠中)の要源太夫が加わりました。1829(文政12)年から数年間、熊取谷(現在の熊取町全域)の中家2家が藩領全体を取りしきる大庄屋となりましたが、天保年間(1830年から1844年)に改めて七人庄屋の制度は再開し、明治維新まで続きました。

岸和田藩領図

岸和田藩領図(1700年ごろ)

熊取谷の中左近・中(降井)左太夫
七人庄屋のうち、熊取谷の中左近・中(降井)左太夫は、他とは別格の存在で、「熊取両人」とも呼ばれ、中世の武士的性格を強く持っていました。それは、いわゆる土豪と呼ばれる地元に暮らす武士であり、近世初期の兵農分離の際、左近・左太夫は地元に残り、松平氏の治世には郷士代官(ごうしだいかん)を勤めました。その弟盛重(もりしげ)は根来(ねごろ)氏を名乗り3000石を超える旗本として活躍しました。このように兄が地元に残り、弟が大名の家来となって出世する例は他にも見られ、「一所懸命(いっしょけんめい)」のことわざにあるように、先祖伝来の土地を守るのは跡継ぎの使命とされていました。