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更新日:2016年05月20日

古絵図をひも解く

「蕎原村絵図」からわかる当時のようす

7ページの絵図は貝塚市内で最も内陸に位置する集落の一つ蕎原村(当時)を描いた絵図です。作られた時期はおそらく江戸時代のものと思われますが、遅くとも明治維新から数年以内までのものです。墨と朱の二色を用いていますが、墨についてはさらに濃淡を使い分けています。
凡例はついていませんが、道を朱で描き、その先を進めばどの村に向かうか地名が書き込まれています。また、村の中で目印となる2か所の「宮林」(左に高おかみ神社、中央に菅原神社)「寺」(常福寺)についても朱で書いています。それ以外は濃い墨で木々や家並み、神社、寺、川、池(3か所)などが描かれ、山なみは薄墨で幅広く塗っていることが確認できます。絵図左下には「方角書里数」として隣接する村(集落および村境)までの距離をまとめており、「トノ原村迄拾八町」「大川村迄拾五町」などと記されています。ここでいう「町」(ちょう)とは距離の単位で1町=約109メートルです。
絵図の向き(方角)は左上に「南」、右上に「西」、右中に「北」、中央下に「東」が確認できます。現在の北を上に描く絵図と比べて、時計回りに120度傾いています。このことは、蕎原村の集落を横長に描くための配置であり、川の上流を上に、海へと続く下流を下に描く江戸時代の「和泉国」絵図とも異なります。
さらに、詳細にみていきましょう。7ページ絵図の左から右へ流れる川は近木川上流部にあたり、蕎原川とも呼ばれていますが、左側の山奥から右側の村の入口付近までの間で10本の小さな川が合流していく様子が見て取れます。中央の川の本流には河岸段丘が形成され、下流にむかって左岸に31軒、右岸に20軒の家が描き込まれ、両岸に集落を形成していたことがわかります。このことは、右岸の家数が多い現在の様子とは異なる点です。深い谷筋にあって右岸は日当たりの良い場所として地元でも認識されています。また、1910年(明治43年)に西葛城神社(木積)へ合祀される前にあったと考えられる数々の神社の鳥居や建物も描かれています。
この絵図は、ふもとの方から見た山の形を描き、隣接する集落だけでなく村との境目までの距離を明示していることから、蕎原村の範囲を示す地図として作られたと考えられます。また、同時に家数がわかるように描いていることから、その集落規模も表しているものでしょう。まるで上空から俯瞰(ふかん)で見ているような印象を持つ貴重な絵図です。
 

1.高おかみ(葛城)神社付近

1.高おかみ(葛城)神社付近 (7ページ絵図を右へ90度回転し拡大した図)

常福寺および菅原神社周辺

2.常福寺および菅原神社周辺 (7ページ絵図を180度回転し拡大した図)

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