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更新日:2015年11月10日

古文書をひも解く

牛をめぐる裁判~「黒牡丹浪花論記(くろぼたんなにわろんき)」

江戸時代の牛は、食用としてではなく、人や荷物を運び、田畑を耕すために飼われていました。村々においては農家で飼育されましたが、乳製品を作るために使われるのではなく、犂(すき)や馬鍬(まぐわ)などをひかせ田畑を耕しました。

 

この農耕に用いる牛をめぐる裁判の記録として、要家文書「黒牡丹浪花論記」という帳面がのこされています。明和7年(1770)年正月から始まる冒頭部分は日記風に書かれています。それによると、まず正月18日に大坂町奉行所から岸和田藩はじめ112か村の代表となる庄屋たちへ呼び出し状が届き、20日八つ時(午後2時ごろ)に町奉行所で与力より、牛をめぐる訴えの中身が確認されました。与力はこの件を話し合いで解決しようと考えていたものの、話し合いが不調に終わったため両者を注意したところ、庄屋たちは「話し合いで解決したいのですが、相手である孫右衛門の言い分のままでは納得ができず、去年の12月に話し合いでは解決できないと奉行所へ申し上げました」と答えています。

 

訴えた天王寺村(現在の大阪市天王寺区を中心に広がる大きな村)で牛博労(うしばくろう=牛のことに詳しく、その売買などを仕事にする者)の孫右衛門という人物は、「天王寺牛市が幕府から許可を得て開いていて、牛の取引は必ず牛市を通さなくてはならない。」、と主張しました。

 

これに対し、庄屋たちは「但馬(たじま=兵庫県北部)に自分たちの中で良い牛を見分けることができる牛目利(うしめきき)を向かわせ、連れ帰ってきています。牛市のできる以前からのことですし、商売でおこなっているのではありません」と反論しました。これを皮切りに、「黒牡丹浪花論記」では、丸一年(12月15日まで)のようす、裁判の全容を知ることができます。

 

なお、今年5月から、参加者が交代で解読し発表し合う「古文書を読む会」において、読み進めているところです。今の時代の農業では、農耕牛はトラクターに取って替わりましたが、かつての農業における牛の位置づけや、江戸時代の裁判のようすをうかがえる貴重な歴史資料です。

田おこしのようす

田おこしのようす『貝塚市の70年より』

黒牡丹浪花論記本文

黒牡丹浪花論記(本文)

黒牡丹浪花論記表紙

黒牡丹浪花論記(表紙)

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