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更新日:2020年05月28日

陶芸家中野梧月と昭和の水間焼

中野梧月による水間焼の制作作業の写真

中野梧月による水間焼の制作

銹絵(さびえ)風景丸額皿の写真

銹絵(さびえ)風景丸額皿

「水間焼」は、現在に至るまでその名が受け継がれている貝塚市域で作られてきた焼物の一つです。江戸時代以前の詳しい記録は残っていませんが、明治時代と昭和初期には市内水間の旧家中野家で「水間焼」が焼かれていました。

明治時代には、中野弥平治(やへいじ)という人物が素焼きの茶陶器を中心とした焼物を作っていました。弥平治が焼物を制作した期間はほんの数年間で、彼が焼いた作品は数点が現存するのみです。

弥平治の孫にあたる中野守(まもる)は、昭和初年ごろから祖父の焼物を引き継いで本格的に陶芸家としての道を歩み始めました。

1935年(昭和10年)、守は自宅の裏庭に5基の登り窯や煉瓦作りの試験窯を備えた陶器工場を建設し、みずからは雅号(がごう)を「梧月」、焼物は「水間焼」と名づけ、水間の土で本格的な焼物作りをはじめました。翌1936年(昭和11年)以降は泉州各地や大阪市内で個展を開催し、その多くが新聞記事に取り上げられたことで、次第に梧月作の「水間焼」の名前は広まっていきました。

しかし、そうした矢先の1940年(昭和15年)、梧月は急逝し、以後梧月の「水間焼」は人びとの記憶から薄れていきました。

梧月が焼いた昭和の「水間焼」は祖父と同じく短期間で幕を下ろしましたが、数年間に数千点ともいわれる作品を生み出しています。その高い成形技術を生かした中国や朝鮮、日本の焼物を写した作品や、若いころから学んだ南画(水墨画)の才能を生かして絵付けを施したものなど、芸術的な作品が現在も残されています。

注:中野梧月が制作した作品については、平成27年3月7日(土曜日)から4月26日(日曜日)まで、 貝塚市郷土資料展示室特別展「まぼろしのやきもの 昭和の水間焼」で展示します。

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