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更新日:2014年10月14日

古文書をひも解く

享保八卯ノ御免帳覚

享保八卯ノ御免帳覚(井手家文書)

高すぎる年貢のなぞ

江戸時代の年貢は、歴史教科書によると「四公六民」「五公五民」という農業生産高に対して4割~5割が課税されていたと書かれています。

しかし、岸和田藩領では8割、9割といった非常に高い年貢率の村がいくつも見られました。例えば1723年(享保8年)の「御免帳覚」(井手家文書)によると、岸和田藩領92ヵ村中31ヵ村が8割を超え、うち17ヵ村が9割を超えるものでした。

では、なぜそのような高率で人びとの暮らしが成り立つのかというと、そもそもの数字があやしいからです。岸和田藩領は、豊臣秀吉の命令による太閤検地がおこなわれた地域とされ、竿を入れて実際の土地の面積を測って検地帳が作成されたと思い込んでいます。しかし、泉南地域では検地帳は実際のところ「差し出し」と呼ばれる村からの自己申告によるものだったのではないかと考えられています。そのため、実際の土地の広さを狭く偽ったり、検地帳には載らずに隠された土地(=「隠田(おんでん)」)があったり、実際の面積からずれてしまっているのです。このことがのちに判明すると、もう一度測り直すのではなく年貢率を引き上げて対応しました。その結果、8割、9割といったとんでもなく高い年貢率となったのです。

大名の石高は、太閤検地をした豊臣秀吉や徳川家康以降の将軍らによって支配を許可されましたから、勝手に測り直すことができなかったという背景があります。岸和田藩は岡部氏がやってきた1640年(寛永17年)に6万石を拝領しましたが、2代行隆(ゆきたか)の代替わりの1661年(寛文元年)に二人の弟に領地を分け、5万3000石に改められました。享保8年の年貢は4万2477石余ありましたから、「五公五民」で計算すると約8万5000石、「四公六民」だと約10万6200石の規模になります。このことは、藩の格式を考えると低く位置づけられることになりますが、領地の石高が増えると国役普請や格式に見合った支出を求められ、大きな財政的負担がのしかかります。藩の大きさは「加賀百万石」などに代表されるように領地の石高で表現されます。岸和田藩5万3000石は本当ならもっと大きな藩だったということが、高い年貢率のなぞのなかに隠されていたのです。

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