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文献から見た千石堀城
根来出城配置図(千石堀城部分拡大図)
千石堀城は、室町時代末期、根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆が近木川(こぎがわ)沿いに築いた中世城郭の一つです。
江戸時代に製作された「根来出城配置図」では、「積善寺(しゃくぜんじ)城」の東南「水ノ門」から11町(=約1.2キロメートル)離れた場所に位置し、「千石堀」と記された切通しを挟んで二つの丘陵地が描かれています。「今城」と記される山手の丘陵地には二重の堀が描かれ、浜手の丘陵地の周囲には二つの池が描かれています(上写真参照)。
正確な築城年代は不明ですが、織田信長が紀州雑賀を攻めた1577年(天正5年)以前には築城されていたようです。江戸時代の地誌には、信長と本願寺が戦った石山合戦(1570~80年)の際に、根来・雑賀勢1万騎余りが「和泉国貝塚、畠中、千石堀城の要害」に入り本願寺方に助力した、という記述が見られます(要家文書「和泉詳誌」)。
羽柴(豊臣)秀吉の時代になると、根来・雑賀衆は千石堀城ほか5つの城に立て籠(こ)もり、1583年(天正11年)から翌年にかけて、泉南・紀州地域の押さえとして岸和田城に入城していた中村一氏軍と戦闘を繰り返していました(『中村一氏記』)。1585年(天正13年)3月、秀吉は本格的に紀州攻めを決行し、最初に攻撃されたのが千石堀城でした。当時のようすを記した「貝塚御座所日記」(東本願寺所蔵)には、「廿一日秀吉御着陣(岸和田城の)虎口(こぐち)を見廻られ、千石堀という城を乗り崩しおわんぬ、城内の根来寺衆ことごとく打ち果て、火を懸けおわんぬ、責め衆も数多(あまた)死す」とあります。この時火を受けたのは千石堀城のみで、他の諸城は「扱」(=仲介)にて落城し、放火はなかった、と記されています。
江戸時代になると、千石堀城址は「三ノ丞(さんのじょう)山」と呼ばれ、真言宗の開祖弘法大師空海をまつる「三ノ丞大師」がおかれた大師信仰の地として広く知られるようになりました。しかしながら、城址には過去の遺物が埋もれていたようで、1809年(文化6年)には、「この砦の跡崩れしが、米俵五つ六つ現れ出ぬ。手をつくればやがて灰のごとく消えしが、その中に米見てり。こも灰の如くなりしが、内に焼き残りし米は、炭に似て形正しくあり」と、城址から米俵が見つかり、中には焼けて炭になった米が入っていたという記録が残っています。この記録には、同時に食塩が入った壺が見つかり、別の時期には刀が見つかったとも記されています(中盛彬著『かりそめのひとりごと』)。
先に紹介した発掘調査では、堀などの遺構や瓦片が見つかった以外に遺物は出土していませんが、今後調査を進めていくことで、記録に残るような遺物が見つかる可能性も少なからずあるかもしれません。
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更新日:2014年06月06日