表紙
貝塚御坊願泉寺本堂の二十四孝彫刻
二十四孝は、中国古来の有名な親孝行であった人びとの総称です。日本では、漢文で書かれた『全相二十四孝詩選』をもとに、それぞれの説話をまとめたものが『御伽草子(おとぎぞうし)』として江戸時代に刊行されました。貝塚御坊願泉寺の本堂内には、内陣・外陣の境と矢来(やらい)の北面・南面の天井を支える蟇股(かえるまた)、矢来の虹梁(こうりょう)上の挟間(はざま)部分に、24話分の彫刻が揃っています。今回は、それらの彫刻の写真と説話のあらすじを簡単に紹介します。

1.大舜(たいしゅん)
大舜は大変孝行な人でした。彼の父親はとてもへんくつな人で、母親は心のねじれた人で、また弟はとてもなまけ者でした。しかし、彼はひたすら家族に孝行を続けました。彫刻は、ある時歴山(れきざん)というところで田を耕していたところ、彼の孝行を感じて大きな象が来て田を耕し、また鳥が飛んできて雑草を取り除き、耕作の手助けをした、という場面です。当時の王であった尭(ぎょう)は、その孝行な心を聞きおよび、娘を后として大舜に天下を譲りました。これはひとえに孝行の深い心より起こったことだといいます。

2.漢文帝(かんのぶんてい)
漢の文帝は、初代皇帝である高祖劉邦(こうそりゅうほう)の皇子です。幼名を恒(ごう)といい、とりわけ母親の薄太后(はくたいごう)に孝行でした。彫刻は、まず自ら毒味をしたうえで、いつも母に食事を運んでいた、という場面です。恒には兄弟もたくさんいましたが、彼ほど仁義に厚く孝行な皇子はなく、そのため臣下の者たちは彼を皇帝として推薦しました。皇帝となった彼は漢の文帝を名のり、孝行の道を知る彼の治世は、豊かで民衆も住みやすい時代になったといいます。

3.丁蘭(ていらん)
丁蘭は、河内(かだい)の野王(やおう)というところに住んでいた人でした。15歳の時に母親を亡くし、永くその死を悲しんだことから、母の姿をした木像を作りました。ある晩、妻が火でその木像の顔をこがしたところ、できもののようにはれ上がり、うみと血が流れました。その二日後、妻の髪が刀で切ったように抜け落ちました。妻は驚いてわび言を言うので、丁蘭も不思議に思い、木像を大きな道沿いに移し置いて、妻に三年間わび言をさせました。すると、一夜のうちに雨風の音がして、木像は自ら家の中に戻ってきました。それ以後は、少しのことでも木像のようすをうかがうようになったといいます。彫刻は、丁蘭夫婦が母の木像に食事を運んでいる場面です。
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更新日:2013年11月07日