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平成25年度の埋蔵文化財調査
平成25年度の発掘調査は、平成26年1月現在、遺跡内の確認・発掘調査を7件、遺跡範囲外の試掘調査を1件実施しました。
今年度の主な発掘調査として貝塚寺内町遺跡内において、感田神社境内に残る濠(ほり)の調査、願泉寺及び卜半役所周囲に掘削された堀の調査があります。
感田神社の濠の調査

感田神社境内図
感田神社は、創建年代は明らかではありませんが、海塚(かいづか)村(現在の海塚(うみづか))の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と堀村の天神社から祭神を迎えて、陶器のほこらを造ったのが始まりだといわれています。願泉寺所蔵の慶安元年(1648年)の絵図(表紙参照)には、周りが濠に囲まれた形に描かれています。戦前まで境内の三方に濠が残っていましたが、南西側の濠は昭和20年代の中町通りの拡張時、南東側の濠もその後埋められ、現在は境内に取り入れられた北東側の濠が貝塚寺内町の環濠の面影を残す唯一の遺構です。
現在残っている濠は、北西側と南東側の一部が埋められており、長さ34.2メートル、幅4.8~5.15メートル、深さ1.3~1.5メートルです。濠の両岸に石垣が積まれていますが、現在参集殿のある北東側はもともと寺内町の外側にあたり、建物の移転に伴って石垣が築かれたと考えられ、平石の隅をたてて積む谷積みという近代の積み方です。しかし、南西側の石垣は方形に整形した石を目が横に通るように積み上げた布積みという方法で築いた、江戸時代に積まれたものと考えられます。
谷積み(北側の石垣)
布積み(南側の石垣)
今回、感田神社境内に残る濠の規模や変遷を調べるため発掘調査を実施しました。厚さ0.25~0.48メートルの泥の層が堆積しており、その下はコンクリートでかためられていることがわかりました。後に昭和40年代にコンクリートを流し込んで整備したことが判明し、残念ながら、コンクリートを壊して調査を実施することはできませんでしたが、石垣が5層から6層以上積まれていることが明らかとなり、濠は大きく破壊されていないことがわかりました。今後は、江戸時代の絵図、明治以降の地図、境内の石造物などを調査することで寺内町の濠の変遷をさぐっていきます。
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更新日:2020年05月28日