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孝恩寺境内の青々句碑
現在、木積の孝恩寺境内に建つ青々の句碑は、1937年(昭和12年)の青々死去から3年後の1940年(昭和15年)に建てられたものです。この句碑は、貝塚「千古吟社」の同人たちの青々への追慕の念を、当時の貝塚町と町民団体「水間保勝会(ほしょうかい)」が後押しする形で建設されました。この句碑に刻すべき句について、千古吟社同人から選定依頼を受けた森古泉は、木積、水間を詠んだ数多くの句のなかから、孝恩寺の弥勒菩薩坐像をうたった「弥勒仏の 下生をいつと 囀れり」を選びました。この句は、先にも紹介したように、青々が初めて当地を訪れた時に詠んだ句であるとともに、青々がこの句を作ったのは「此(この)優秀な木彫弥勒仏坐像を拝観され、さては木積わたりの眺めに天平の名残をも思はるゝ景趣、特に清浄な釘無堂境域を歩かれて啼鳥(ていちょう、鳥の鳴き声)や水音を耳にせられて、彼の未来仏たる弥勒仏の下生(神仏がこの世に現れること)に対する至高なる思慕」からであろうと古泉が判断したからでした。

1940年11月3日孝恩寺青々句碑建碑式

孝恩寺青々句碑を囲んでの記念写真
古泉は、この句碑建設にあたって、「釘無堂と青々先生とのゆかりも古いものであるが此句碑に依つて更にぴつたりとなつた。又いつからか千古吟社の発意であつた、先生の句碑建設が実現した喜びは、独り吟社の四君のみでは無い、此碑の清浄至高なる句に依つて倦鳥俳句道の神髄に触れしめつゝ、世上多くの作句者を正しき俳句道に導くべき先生の芸術の偉大さは、蓋(けだ)し計り知られぬ深さである事を更におおいなる悦びとすべきである。」と、青々俳句の継承を願い、俳誌『倦鳥』に掲載された前掲の文章を閉じています。
俳句は、四季おりおりの自然の美しさや、それによって引き起こされる情感を、五・七・五の十七音にまとめた一種の定型詩です。青々が詠んだ多くの俳句には、大正時代から昭和初期にかけての今はなき郷土貝塚の美しく懐かしい情景やその時々の情感があふれています。紙幅の都合でそれら全てを紹介することはできませんが、また別の機会にそれらを紹介できればと思っています。
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更新日:2020年05月28日