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更新日:2020年05月28日

貝塚町から貝塚市へ

貝塚市は、平成25年5月1日をもって市制施行70年を迎えます。今回のテンプスでは、1889年(明治22年)の市制町村制による7町村の成立から1943年(昭和18年)の「貝塚市」の誕生までの過程を概観します。

明治維新期の貝塚市域は、おもに岸和田藩主岡部氏所領の村々と願泉寺卜半(ぼくはん)家領の貝塚卜半寺内(じない)に分かれていました。その後さまざまな変遷を経て、1889年(明治22年)、市域には貝塚町、麻生郷(あそごう)村、木島村、島村、西葛城村(以上、南郡)、北近義(きたこぎ)村、南近義村(以上、日根郡)の7つの町村ができました。この7町村の成立は、前年に公布された市制町村制(1889年4月1日より施行)によるものでした。

第一次世界大戦後、7町村のうち麻生郷村に紡績業や金属業を主とする工場があいついで立地し、工業の発展が見られるようになりました。そのため、1900年代には5千人規模であった人口は1920年代には1万人を超えるようになり、町村組合を設けていた島村との合併による町制施行が検討されるようになりました。

一方、その他の5町村の人口は2千~4千人規模と横ばい状態でした。とくに寺内町(じないまち)であった貝塚町では、新たな市街地や工場を建設する余地が乏しく発展の限界に達していました。そこで、1920年代になると町域の拡大が望まれるようになり、1924年(大正13年)にはまず北近義村との合併交渉がはじまりました。

また、1920年代末になると、大阪府が町村合併を積極的に推進するようになり、貝塚町を中心とする市域の合併構想はそのモデルとみなされました。大阪府は、貝塚町を中心とした産業のほか、近木川(こぎがわ)を中心とする水利関係や1926年(大正15年)に水間鉄道が開通したことなどを判断材料として、当初から市域7町村の合併を構想していました。

しかし、7町村合併構想を基礎として始まった合併交渉は順調には進まず、慎重論が強かった木島村と西葛城村は1930年(昭和5年)7月ごろに合併構想から外されました。また単独町制を目指していた麻生郷・島組合村の反発の声も少なくありませんでしたが、1930年9月に合併参加の態度を決しました。こうして翌1931年4月1日をもって5町村は合併し、人口約2万4千人におよぶ大阪府最大の町である貝塚町が成立しました。

合併が見送られた木島村は1935年(昭和10年)4月15日、西葛城村は1939年(昭和14年)4月10日をもってそれぞれ編入となりました。その結果、貝塚町は市域7町村を包括する規模となり、人口は約4万3千人に達し、市制の適用に足る人口3万人以上の都市的形態を備えた町となりました。

木島村併合宣伝ビラの写真

木島村併合宣伝ビラ

西葛城村併合宣伝ビラの写真

西葛城村併合宣伝ビラ

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