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更新日:2012年03月29日

江戸時代文化8年の水間寺本堂再建

貝塚市水間にある龍谷山水間寺は、奈良時代天平16年(744年)に聖武天皇(しょうむてんのう)の勅命を受けた行基(ぎょうき)によって創建された寺院で、古くから厄除け観音「水間観音」として広く知られています。水間の名前の通り、近木川(こぎがわ)(蕎原川(そぶらがわ))とその支流である秬谷川の合流地点周辺に広大な境内地が広がっています。

現在の水間寺本堂(貝塚市指定文化財)は、平面が約23メートル四方にもおよぶ大阪府下でも最大級の本堂建築です。江戸時代文化8年(1811年)に再建されたもので、昨年平成23年で再建後200年を迎えました。

文化8年以前の本堂は、天正13年(1585年)3月の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による紀州攻めによる焼失後、文禄元年(1592年)3月に岸和田藩主小出秀政(こいでひでまさ)が再建したものと伝えられています。その姿は元禄7年(1694年)の水間寺境内絵図(4、5頁参照)で確認できるのみです。しかし、この本堂は天明4年(1784年)の火災によって再び焼失しました。

天明4年(1784年)10月20日の早朝、本堂より出火し食堂(じきどう)や三重塔に類焼する火災が起こりました。畠中・神前(こうざき)村の庄屋で岸和田藩の七人庄屋をつとめた要(かなめ)家の「日記」天明4年(1784年)10月20日条には、「今暁七ツ時分(=午前4時ごろ)水間寺出火、本堂より出、食堂・塔迄焼失、観音院斗(ばかり)残り申候事」と当時の様子が記されています。

和泉名所図会1

『和泉名所図会』第三巻 和泉郡・泉南郡 所収「水間寺図」 寛政8年(1796年)

和泉名所図会2

天明4年(1784年)の本堂焼失から文化8年(1811年)の再建までの期間に刊行された『和泉名所図会』には、「本堂跡」として建物がない様子が描かれています。

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