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更新日:2011年09月02日

古文書をひも解く

◆江戸時代の農作物-甘い作物「西瓜」を考える-

夏の食べ物といえば・・・。黒と緑のしま模様といえば、そう「西瓜」です。
「西瓜」は熱帯アフリカ原産のウリ科の植物で、日本へは天正7年(1579年)に伝わったとされ、畑地に広く栽培されています。

こうして西瓜栽培は江戸時代に広まっていきました。寛政8年(1796年)から同10年にかけて刊行された『摂津名所図会』には、「鳴尾西瓜」が土地の名産として紹介されています。鳴尾は摂津国の西部(兵庫県になった摂津国の地域をのちに西摂と呼びました)の海沿いの村で、現在の西宮市鳴尾に当たります。泉州から見ると、淀川を軸に大坂湾の向こう側に位置します。白い砂と青い松「白砂青松」(はくしゃせいしょう)の広がる海岸は西摂(せいせつ)・泉州ともによく似かよっています。

甘蔗西瓜植付書上帳(かんしょ・すいかうえつけかきあげちょう)

甘蔗西瓜植付書上帳(要家文書)

甘蔗西瓜植付書上帳(かんしょ・すいかうえつけかきあげちょう)

鳴尾西瓜同様、泉州でも西瓜栽培が盛んであったらしいことが、次の史料から読み取れます。

安政2年(1855年)4月、王子村年寄3名から岸和田藩地方奉行(じかたぶぎょう)に対して提出された「甘蔗西瓜植付書上帳(かんしょ・すいかうえつけかきあげちょう)」の控えには、甘蔗(=さとうきび)・西瓜の植え付けた場所(地字)・面積・石高・耕作者の名前が、こと細かに書き上げられています。また、奉行らに提出したものに偽りがないことを主張し、「見分」(実際に村々にやってきて取り調べること)を求めています。

これは、本来、稲作・木綿作をすべき本田(ほんでん)へは植え付けを厳重に禁止し、水の利が得られず五穀の栽培に適さない畑や屋敷地などでの栽培に限定されていたためです。史料から、王子村の西瓜栽培の高は3石5斗3升7合8勺で、村高(安政2年当時)の662石4斗7合の、わずか0.5%に過ぎない生産量であることがわかります。このことからも、地方奉行が、岸和田藩領全体を厳しく取り締まり、本田には一切植え付けさせないという姿勢を表わしています。

この頃西瓜は人気が高く、暑い夏を乗り切る清涼剤としての役割を持ち、高値で取り引きされたことから、本田にまで植え付けようとする人びとが現れ、このような制限がなされるに至ったと考えられます。

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