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更新日:2020年05月28日

古文書をひも解く

『和泉名所図会』に描かれた貝塚浦のようすの画像

寛政8年(1796年)刊『和泉名所図会』に描かれた貝塚浦

◆北前船(きたまえぶね)と貝塚

江戸時代の海上輸送は、一般に大坂を起点として、瀬戸内海から日本海へ向けて進む西廻り航路と、太平洋側を進む東廻り航路とがありました。そのうち、瀬戸内海を通って、近畿地方と日本海沿岸の北陸・東北・北海道方面とを結ぶものを「北前船」と呼んでいました。貝塚寺内町の商家、廣海家は天保6年(1835年)に開業し、北前船によって仕入れた米や肥料を、ひろく泉州地域に販売しました。創業当初は主に越後の糸魚川(いといがわ)・鬼舞(きぶ)(ともに現在の新潟県糸魚川市)・直江津今町(同上越市)などから越後産の米を、陸奥(むつ)の野辺地(のへじ)(現在の青森県上北郡野辺地町)などから松前産(江戸時代の北海道産商品の呼び名)の魚肥を購入しました。 幕末には米や肥料の高騰を契機に経営を拡大させ、文久3年(1863年)には大型和船を所有し、自ら日本海へ船を繰り出しました。

最初に紹介する史料は、ちょうど幕末の頃、米や肥料などを泉州地域で販売する際に出される引き換え証で「出し切手」と呼ばれているものです。【写真1】は、秋田米16俵の引き換えを求める出し切手で、丙寅=慶応2年(1866年)4月23日付けで、岸和田の商人干物屋清右衛門から廣海御店に宛てて出されたものです。よく見ると、「入り山」印や三印という区分けがあり、米俵にはそれぞれ印が押されている銘柄米であることがわかります。現在の品種や産地などで価格の差があり、全国各地に取引相場が形成されていました。とりわけ大坂堂島の米市場は、全国の米が集められることから、大きな目安となっていました。【写真2】は、一般に干鰯(ほしか)と呼んでいる「いわし粕」50本を船に積み込んでほしいという内容の出し切手で、同じく丙寅=慶応2年10月24日付けで、岸和田の商人紀伊国屋(きのくにや)幸兵衛から廣海惣太郎殿に宛てて出されたものです。右肩の「タルマイ」の文字は、漁場とし て全国的にも有名であった北海道の樽前浜(現在の苫小牧市樽前)のことを指しています。

出し切手(秋田米)の写真1

【写真1】出し切手(秋田米)

出し切手(いわし粕)の写真2

【写真2】出し切手(いわし粕)

このように、遠く秋田・北海道をはじめ東北・北陸などの産物が貝塚まで届けられる、船による物流のしくみが江戸時代に形成されていたのです。そして、貝塚から岸和田をはじめ佐野などの商人、あるいは直接村々に届けられるように発達していきました。これらの動向は多くの帳簿を分析することにより明らかになります。干鰯・穀物それぞれに対して仕切帳(しきりちょう)と売留帳(うりとめちょう)が作成され、商品の数量・価格がこと細かに書き上げられています。二種類の帳簿は大きく性格が異なります。まず、仕切帳は荷主(船)への代金支払いの「仕切」を取りまとめた帳簿で、仕切日、荷主の名前、商品の種類と数量・重さ、価格が記されています。これに対して、売留帳は廣海家からの販売先ごとに、販売日、販売額、入金日、入金額が記されています。この二つの帳簿を照らし合わせると、仕入れから売り上げまでが確認できるものです。

5月25日から6月29日まで5回にわたって開催する古文書講座では、当時の時代背景などを取り上げながら、貝塚の米穀肥料商廣海家の商業活動を明らかにしていきます。

穀物仕切帳と干鰯仕切帳の写真

穀物・干鰯仕切帳

穀物売留帳の写真

穀物売留帳

干鰯売留帳の写真

干鰯売留帳

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