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更新日:2009年11月09日

市内の古文書調査から

教育委員会では、貝塚市に関わる古文書を調査し、歴史をひも解く作業を行っています。今回は、昨年度から今年度にかけて調査した南川家文書を紹介します。

南川家文書が納められている木箱

◆南川家文書(木積)

南川家は市内木積(こつみ)にある旧家で、江戸時代には「勘兵衛」の屋号を名乗り、代々木積村の庄屋をつとめた家です。岸和田藩の中でも有力な庄屋である「七人庄屋並(しちにんじょうやなみ)」に列せられ、岸和田藩領内村々の利害調整のほか、木積村の村政にあたりました。

同家にのこされた古文書および書籍類を新たに調査したところ、戦国時代から近代にかけての木積村に関する記録のほか、『論語』や『孟子』をはじめ中国の四書五経に関する書籍など460点にのぼる貴重な史料を確認することができました。

これらのなかで最も注目されるものに、戦国時代の根福寺城(こんぷくじじょう)とその周辺に関する記録が挙げられます。この記録によると、弘治3年(1557年)10月、松浦孫五郎(まつらまごごろう)が木積に蛇谷城(じゃたにじょう)を築いた(注1)ことが記されています。

永禄元年(1558年)8月には和泉国の守護代(注2)をつとめていた三好氏と、和泉国南部から紀伊国紀の川筋にかけて勢力を張っていた根来寺とが木島谷(きのしまだに)で合戦におよんだ様子について事細かに描かれています。三好方の武将が、根来の寺領を奪おうとして木島谷を攻撃し、200人ほどの村人が応戦、18人の「百姓の大将」が討ち死にしたものの、三好方を退かせたことのほか、当時「怒田山(ぬだやま)」(=野田山)と呼ばれる場所にあった城を、この年根来寺の末寺「根福寺」に改称したことが明らかになっています。

また、同じ年の10月には、近木庄(こぎのしょう)地蔵堂(注3)に「根福寺の衆」が集まり、根来寺の使者を迎えたという記述も見られます。このように、現在の貝塚市域が戦国時代において根来寺の重要拠点であったことを伝える史料がのこされるなど、西葛城地域の歴史を深める上で貴重な史料です。

注1 孫五郎の父とされる松浦肥前守守(まつらひぜんのかみまもる)が築いたとする説もあ
 る。松浦肥前守守は当時、岸和田城主をつとめるなど、現在の岸和田市から貝塚市に
かけて勢力を持っていた。
注2 守護の代官のこと。国内の武士の組織化をおこない、下剋上によって領主化し大名に
 なることも多かった。越前の朝倉氏、尾張の織田氏、越後の長尾氏などは守護代から
 戦国大名になった。
注3 地蔵堂とは現在の貝塚市地蔵堂にある正福寺の古い呼び名。

南川家文書
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