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更新日:2020年05月27日

要家文書をひも解く

2ページでお伝えしました貝塚市指定文化財となった要家文書は、七人庄屋として岸和田藩政に深く関わる内容と畠中村・神前村庄屋として近木庄の地域に関わる内容を合わせもつ貴重な史料です。ここでは、その代表的な史料について紹介します。

日記の表紙の写真

36冊にものぼる膨大な日記

36冊にまとめられた80年間の日記

要家文書のなかで特に注目されるものとして、「日録」「日記」というタイトルのついた厚さが15センチメートル程度の横帳が36冊ものこされています。

畠中村・神前村の庄屋を代々つとめた要家の当主が、江戸時代中期にあたる宝暦12年(1762年)から天保12年(1841年)までの80年間の日々のできごとを綴ったもので、享和3年(1803年)から文化9年(1812年)までの10年分は欠落しているものの、その記録は貴重なものです。

内容は単なる私的な日記ではなく、日付、天気を記したあと、できごと別に箇条書きされています。まず農業に関することが書かれ、その日の下男・下女の仕事、家族の行動が続きます。その後ろに当主の行動が記され、藩領内の各村へ出かけて行ったこと、岸和田城から呼び出しがあったこと、村々のもめごとの仲裁を行なったことなど、一日の行動をこと細かく書き留めています。

岸和田藩の政治的な動向についても、庄屋の立場から詳しく記録しており、寛政元年(1789年)からは「七人庄屋」(岸和田藩領内の最も有力な庄屋)となったことで藩領全体の村落支配に広く深く関わったため、日記の記述はそれまで以上に政治的な色合いが強いものとなります。

とくに、文政3年(1820年)から行なわれた岸和田藩の藩政改革についての記述は詳しく、藩領内村々の借財調査の指揮を担当、藩自身が抱える借財の交渉にも関わるなど、その役割の重要性も読み取ることができます。

岸和田藩主からの諸役免除の書状の写真

岸和田藩主からの諸役免除の書状

新田開発の歴史

左の写真の古文書は、分厚い紙質で、厚手の包紙に包まれ、専用の木箱に納められており、厳重に扱われていました。これらは江戸時代に開発した新田の諸役(注1)を免除するお墨付きで、ほぼ中央に藩主の呼び名「美濃」(岡部美濃守)「内膳」(岡部内膳正)などの署名があり、その下に黒印が押されています。

開発した時とその後の藩主代替わりごとに発給されました。宛名は「畠中村庄屋要源太夫」「近木庄中庄屋共」「畠中村庄屋要源太夫・年寄・惣小百姓」など、その土地の持ち主によって違いがあります。新田開発は17世紀から幕末に至るまで全国各地で盛んに行なわれ、岸和田藩でもため池や用水路を整備し、荒れ地や藪を開墾し、棚田や段々畑を切り開くなど、少しでも耕地面積を拡大する努力を続けていました。


(注意1)諸役とは、藩に納める年貢のうち、本年貢を除いた部分で、年貢全体の1割程度に当たります。もともと豊臣秀吉の時代に大坂への運搬料として課税された役米などが含まれています。

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