現在の位置

6ページ

更新日:2020年05月28日

古絵図をひも解く

要家文書「件番社地境内図」の写真

神前(こうざき)神社と戎(えびす)池

左の絵図は、文政6年(1823年)9月に作成された絵図です。加治・神前(現在の加神)・畠中・脇浜の4つの村が入り組んだ土地の境目をめぐって争ったことから、領主である岸和田藩がその決着を図るため、境界を明確に描くよう指示し作られたものです。絵図には現在の西小学校から株式会社セイサの本社・工場の東側にかけての場所が描かれており、戎池と呼ばれる大きなため池と、周囲を取り囲むようにいくつかの神社が建っていたことが確認できます。この辺りは、現在も小高い地形であり「長楽寺山(ちょうらくじやま)」という地名ものこされています。戎池は、今も近くに残る籠池(かごいけ)とともに、脇浜のかんがい用水として利用されていましたが、昭和17年(1942年)大阪製鎖造機(現在のセイサ)の工場建設にともない埋め立てられたようです。

また、「妙見(みょうけん)さん」の名で親しまれていた神前神社(絵図左上)をはじめ、戎池を取り囲んでいた神社のほとんどは、明治40年(1907年)11月に脇浜の高おかみ神社(脇浜戎大社)に合祀(ごうし)されました(注1)。神前神社の跡地には、翌明治41年にその周辺の土地とを合わせて、現在の貝塚市立西小学校(当時は南北近義村学校組合立近木北尋常小学校)が開設されました。

このように神社の統合や大工場建設で、地域の景観は大きな変貌をとげました。古い絵図に描かれた神社や池は、全くその面影をとどめていません。しかし、当時の人びとの暮らしに大きな関わりがあった神社は学校に、ため池は工場や宅地にその姿を大きく変えています。

西小学校の写真

(注意1)江戸時代には、それぞれの集落ごとに神社がまつられ、いわゆる「村の鎮守(まもり神)」として人びとの信仰を集めていましたが、明治40年代に、一つの町村には一つの神社を置くとする政府の政策によって、それまで市域にあった80か所をこえる神社は、阿理莫(ありまか)神社〈久保〉・稲荷神社〈森〉・感田神社〈中〉・高おかみ神社〈脇浜〉・西葛城神社〈木積〉・南近義神社〈王子〉にそのほとんどが合祀されました。

この記事に関するお問い合わせ先

教育部 文化財保存活用室

電話:072-433-7126
ファックス:072-433-7053
〒597-8585
大阪府貝塚市畠中1丁目17番1号 本館5階

メールフォームによるお問い合わせ