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更新日:2020年05月28日

真上(まかみ)新田と七人庄屋

真上新田は、明暦元年(1655年)に阿間河谷(あまがたに)(現岸和田市真上町とその周辺)の土地を開墾し、一つの独立した村として成立しました。開発者真壁(まかべ)新左衛門の名前がなまって「まかみ」となったと伝えられています。17世紀の終わりから18世紀半ばまで、佐野村の千地(ちじ)新兵衛・道幸(どうこう)彦兵衛が持ち主となり、その後佐野村の豪商食野家の一族に連なる矢倉家が新田全体の地主となりました。寛政元年(1789年)になると、真上新田は再度転売され、七人庄屋・郷会所(岸和田城内にあった村役人たちの寄り合いの場所で、七人庄屋をはじめ有力な庄屋は月に数日出仕)が共同の地主となりましたが、このような形で新田経営が行なわれることは他に例がありません。地主としての収益は「国徳米(くにとくまい)」と呼ばれ、郷会所の運営にかかる経費や、大坂・堺などでの訴訟費用などにあてられました。このような制度改革は、七人庄屋が深く関わるなか、村々の負担軽減を目指したもので、領民の代表として、人々の暮らしの安定に努めていたことがうかがわれます。

真上新田諸役免除状の写真

真上新田諸役免除状

天保6年(1835年)、岸和田藩主岡部長和(ながより)から七人庄屋と郷会所に宛てて出された、真上新田の諸役を免除する旨を許可する書状。明治時代の裁判資料として用いられたことを示す書き込みが見られます。

古文書講座

古文書講座31の様子の写真

「戦国から近世へ」

平成21年9月26日(土曜日)から5回にわたり、「戦国から近世へ」と題して古文書講座を開催しました。
戦国時代、現在の貝塚市域は北からの勢力と南からの勢力がぶつかりあい、幾度も戦場となるなど、多数の城が築かれたところです。北からは三好長慶(みよしながよし)が堺を拠点に、和泉国全体をその支配下に置こうと攻め込んできました。南からは地元に暮らす人々と深いつながりを結んだ紀伊国根来(ねごろ)寺が、庄園支配などを通じて土豪(どごう)と呼ばれる地域の武士とも連携して、北からの勢力の南下を食い止めようと城を築いて抵抗しました。
講座では、貝塚市で最も山手に位置する大川・秬谷(きびたに)の集落に挟まれた根福寺城(こんぷくじじょう)とその周辺に関する記録をもとに、絵図や水間寺への寄進状なども用いながら、当時の近隣の国々の政治状況なども踏まえて、この一連の戦いの様子を解き明かしていきました。
講座の参加者からは、「この講座の続き、信長・秀吉の時代のことも知りたい」「十河(そごう)氏(三好氏の一族で讃岐国を本拠とした武士)が昔この近所にいたことを知って四国が近く感じられた」といった感想が寄せられました。

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