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更新日:2020年05月28日

岸和田藩の七人庄屋

七人庄屋とは

江戸時代、貝塚市内を含む岸和田市の西側から泉南市にかけては、概ね岸和田藩の支配下にあり、岡部氏が治めていました。岸和田藩は村々の支配を円滑に進めるため、藩領内の庄屋の中から経済的・政治的に力のある七人を選び出し、七人庄屋と呼び、村々への触れの伝達や村々からの訴えを取りまとめる仕事を担当させ利害の調整や行政的な役割を果たさせました。
七人庄屋とは、藩にとっては村々を取り仕切る役人であり、村人たちからみれば村の代表という両方の立場を合わせ持つ存在でした。年貢の取り立てが厳しい他藩や幕府領で起きた百姓一揆が岸和田藩では起こらなかったのは、村人たちの不満や反感が藩政に集まらないように、工夫や努力がなされていたと考えられます。七人庄屋を仲介に藩と村々相互の関係はバランスを保っていたと言えるでしょう。とくに、七人庄屋はじめ村役人の家が打ちこわされるようなことがなかったのは、村の代表として、村人たちの立場を尊重していたことの現れではないでしょうか。
その七人庄屋とは、熊取谷(現熊取町)中左近・中(降井)左太夫、佐野村(現泉佐野市)藤田十郎太夫・吉田久左衛門、岸和田村(現岸和田市)岸六右衛門、樽井村(現泉南市)脇田右馬太郎、信達市場村(現泉南市)小川信左衛門の七家で、寛政元年(1789年)には小川信左衛門に代わって畠中村(現貝塚市)要源太夫が加わりました。

七人庄屋の格式

七人庄屋の働きに対して、藩は武士的特権である苗字・帯刀をはじめとする称誉(しょうよ)を許可しました。また、槍(やり)や脇差(わきざし)(短い刀のこと、武士は長い刀と短い刀を差していたことから「二本差し」とも言いました)・帷子(かたびら)(夏に着る裏地のない一重の衣服)・羽織袴(はおりはかま)(登城する際の衣服)・裃(かみしも)(登城する際の正装)など武士の持つ武具や衣服まで与えられました。さらに藩主への拝謁(はいえつ)(お目見得)や岸和田城内に召し出された時の座席順が決められるなど、村役人の中でも別格に位置付けられる格式を与えられました。藩主との対面には、新年のあいさつである年頭御礼(ねんとうおれい)、暑中・寒中のお見舞いとしての暑寒御機嫌窺(しょかんごきげんうかがい)、その年最初にとれた米などを献上する初米御礼(はつまいおれい)、藩主が江戸より参勤交代で帰国した際の御帰城御礼(ごきじょうおれい)などがあげられます。
このような七人庄屋に対する格式の制度が確立するのは18世紀の後半から19世紀のはじめ、宝暦から文化・文政年間にかけてのことです。その後、七人庄屋だけでなく多くの村役人や商人にまで広げられ、廃藩置県により岸和田藩が解体される明治4年(1871年)まで続いていきました。

就帯刀御免御祝帳の中身の写真

就帯刀御免御祝帳(たいとうごめんにつきおいわいちょう)

宝暦2年(1752年)、要源太夫に帯刀が許可された際に、お祝いを配った先と品物を書き上げた帳面。親戚や懇意にしている商人や村役人、畠中村・神前村の村人たち、さらには藩の重役から下級役人に至るまで、幅広い人たちに贈り物を届けたことがわかります。

就帯刀御免御祝帳の表紙の写真
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